【映画】「愛の嵐」
久しぶりに観たリリアーナ・カヴァーニ監督の「愛の嵐(The Night Porter)」(75年・イタリア)。
昔、この映画のパンクTシャツを持ってたなぁ。
ルキノ・ヴィスコンティが絶賛したというだけあって、何度観ても素晴らしい映画だと思う。
JAPANの名曲「ナイトポーター」もここから取ったのかしらん。
1957年のオーストリア・ウィーン。
ナチの親衛隊将校だったマクシミリアンは、過去を隠してホテルのフロント係として働く。
ホテルには、彼の愛人だった伯爵夫人や同じ親衛隊員だった同僚も滞在している。
ある日、ホテルの客として、若手の指揮者とその美しい夫人ルチアが現れる。
20年前、ユダヤ人だったルチアは、強制収容所に入り、マクシミリアンの倒錯した性の愛玩物となっていた少女だった。
2人は思いがけない再会に驚き、ルチアは夫を促して即座にウィーンを去ろうとする。が、心変わりして、夫を単身、次の興行先に飛び立たせると、独りホテルに残る。
マクシミリアンは「なんでここに来たのだ!」とルチアを殴りつける。
2人は揉み合ううちに抱き合い、お互いを激しく求める。
収容所時代の倒錯した性を思い出し、快楽に溺れていく。
ホテルには元ナチ党員の組織があって、自分たちのナチ時代の悪行を証言する人間を消して戦後を生き抜いて来た。
組織はルチアに目を付けるが、マクシミリアンは彼女を守り、自分のアパートにかくまう。
そして、彼は仕事も辞めて倒錯した愛に溺れて行く。
常に組織に見張られ、電気も消されて、食料も切れた2人は、親衛隊の制服と、収容所時代と同じようなワンピースを身に付けると外に出る。
ドナウの橋を渡る2人。
銃声が響いて、2人は崩れるように倒れる…。
戦後、オーストリアで生き残ったナチ党員らが横のつながりを持っていたのは事実らしいが、ナチズムという抑圧された世界で、立場を利用して、ユダヤ人美少女を相手に、倒錯した性愛という欲望を最大限に発散させたマクシミリアン。それにマゾ的な奴隷愛に目覚めてしまったルチア。
全編に漂う世紀末の退廃的な雰囲気がこの映画を盛り上げてもいる。
鉄の秩序と堕落した退廃。表面的には相反するものであるが、人間の中では表裏一体で、規律に実直に厳しい者こそ、欲望を求めてどこまでも堕ちていくものだ。
短髪にされたルチアが、ナチ党員の間を、上半身裸にサスペンダー、ナチスの帽子、黒革の手袋で、小さなオッパイを揺らしながら艶かしく踊りつつ、デカダンな歌を唄うシーンは、既に伝説化されてる通りにインパクトが強くて素晴らし過ぎる。
確かに、表現方法が溢れるほどある現代では、そんなに大したことはないかもしれないが、黒い親衛隊の制服を着たマクシミリアンが、囚われの身の美少女を裸にしてネチネチといたぶる様は、もう究極のエロチック。一方の、再会した2人の激しい抱擁と一方的なマクシミリアンの暴力、ジャムを舐めながらのベトベトのセックスも同様だ。
秩序と征服、倒錯した性愛とエロス、退廃的なデカダンスの世界とナチスってよく合うのだよ。
ああ、危険な映画だ。