「成瀬巳喜男 映画の面影」
小津、黒澤、溝口に続いて、成瀬巳喜男監督作品を片っ端から観てやろうと目論んでる俺には、当然、興味深い本だった。
成瀬監督作品は、心理表現を中心とした感傷的な恋愛劇(いわゆるメロドラマ)が多いのだが、日常を描くのでも、下町の、路地が入り組んだ狭い、庶民が住む場所を舞台に、生活に苦労している設定が中心。
つまり生活とは金のやり繰りなのだ。比較的裕福な生活を描いた小津や黒澤とは違う。登場人物は、とにかく貧乏であることが多く、貧乏ならではのユーモアを交えた“貧乏ギャグ”を節々に挿入したりする。
メロドラマであるから、主に女性が主人公(男性原理よりも女性原理を大事にする)となるが、男女の恋愛にも金の問題を持ち込む。下積み時代が長かった成瀬監督の厳しい現実感覚である。
そして、小津と同様、廃れゆくもの、寂れてゆくもの、消え去ろうとするものへの愛惜の情を忘れることはない。やはり、“無常感”を表すことは、昔の、日本の映画監督の特徴かもしれない。
ちゃぶ台、ぬれ縁、2階借り、ガリ切り、出前の寿司、自転車の出前…昭和30年代までは普通にあった庶民の暮らしや風俗をシッカリと描いている。
女性を描くのでも、成瀬監督の場合は、やたらと未亡人が登場する。未亡人とは、男に頼らないで生きる単独者。自活を目指す。今の自立する女性よりも、当時はもっと厳しく生活の要素が強い。自立というより自活である。
東京・下町を舞台に、裕福な者には批判の目を向け、貧乏に喘ぐ人々の慎ましい暮らしが、男女の恋愛を材料に、愛惜を込めて描かれる。
著者は「成瀬は、真正面から戦争を描くことはしなかったが、どこかに戦争の影が落ちている。国は敗れたが、自分は生き残った。自分の暮らしの背後には、無数の死者がいる。そんな思いがあるから、成瀬映画には慎ましさがあるのではないか」と書く。哀しみがあるからこそ、成瀬映画の女優たちはあんなにも美しいのだ。
大瀧詠一氏が、成瀬巳喜男監督の大ファンで、映画のロケ地を熱心に探して歩いて回っていたなんて驚いた。