「特攻 戦争と日本人」
鹿児島・知覧にある博物館には2回足を運んだ、“神風特別攻撃隊”であるが、死者数は、海軍が4146人、陸軍が2225人の計6371人に上る。ほとんどが10〜20代の若者たちだ。
米軍の艦隊に突っ込む“航空特攻”だけではなく、戦艦大和の特攻や、回天などの人間魚雷、水上特攻艇「震洋」、特攻ボート「マルレ」、特攻機雷「伏龍」まで、人間を使った生命軽視の各種“玉砕”攻撃が躊躇もなく行われたということは、他に取り得る作戦がなかったという切羽詰まった当時の戦況がわかるというものだ。
すぐに決断できずに、愚かなことであっても、ズルズル犠牲者を増やしてでも、一種の責任逃れで続けてしまうという流れは、今でもアチコチで多く起こっていることであろう。
戦争末期になって来ると、科学・技術力・物資の面で、米国に大きく遅れを取っているのは自明の理で、頼りになるのは、ただ「精神力」のみであった。具体的には、自分の命を犠牲にして国を守る、肉体は死んでも、その精神は死なないということだ。
一応、最初の頃は表向きは志願とされたが、有無を言わせずに参加を促すという雰囲気があった。失敗して戻った特攻兵に、長官が「貴様は命が惜しいのか!」と怒鳴って鉄拳制裁があったというから、ほぼ強制に近いだろう。エンジントラブルなどで引き返した搭乗員を軟禁する場所もあって、一部でヒロポンも用意されたし。
その長官連中の多くは、「自分も必ず後に続く」と約束しといて、戦後は「死ぬばかりが責任の取り方ではない」として、のうのうと生きる。そして、その連中が、特攻を志願だったなどと美化して発表、それを真に受けた、例えば「宇宙戦艦ヤマト」みたいな“特攻🟰美しい物語”のアニメが作られるわけだ。
特攻を正式に始めたとされているのは(実はハッキリとはしない)、海軍の大西瀧治郎中将(敗戦決定後、割腹自殺)であるが、戦果を上げるためではなく、「後世において、子孫が、先祖はかく戦えりという歴史を記憶する限りは、大和民族は断じて滅亡することはない」…つまり日本精神の継承であった。
もう一つは、戦争を止めるためであり、特攻によってヒロヒト天皇が終戦に向かって動くと期待してのことだったという。もちろん天皇は「よくやった」というだけで、期待外れだったわけだが。
特攻の戦果は、ほとんどないに等しい。大きな戦果を上げたのは、米空母「バンカー・ヒル」に大穴を開けたくらいで(沈没はしていない)、特攻は戦果そのものよりも出撃すること、敵に突っ込むこと、つまり死ぬことが目的となっていた。
特攻は、勝つための合理性を鼻から放棄した異常な作戦だったのである。果たして、これは民族性に根差すものなのだろうか?