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三川坑
先日訪問した万田坑、宮原坑に続く大牟田の産業革命遺産、三池炭鉱・三川坑跡に行ってきた。大牟田市なんて意外と近い。
最初に管理棟に行くと、15分ほどの紹介ビデオを見せられたが、博物館他でも見たので、大まかに歴史はわかってるつもり。
ここで働いてた元鉱員のお爺さんがピッタリとくっついて施設を案内してくれた。
万田、宮原は歴史は古いが、イギリス、ドイツを真似て近代設備を整えたのはここ、三川坑で、平成9年(1997)に閉坑となるまで有明海の海底下に向かって、深さ350メートル、2キロ以上のトンネルを2本も掘り進めたという。
元鉱員のお爺さんが言うには、三川坑は、近代設備導入も戦後最大、昭和38年に起きた爆発事故も戦後最大(500人近い死者)、労働争議(三池争議)も戦後最大、で、ヒロヒト天皇の入坑視察もあったそうで、自分が働いて掘った場所に、鉱員としての誇りとプライドをいまだに持ってるのを感じた。
万田、宮原のことを聞くと、「あそこは古いだけですから。単に古いというだけで世界遺産になった」とディスる(笑)。
確かに、日本で最も古い明治の炭鉱電車がそのまま展示してあったり、入昇坑口や線路跡、巻揚機室、各種建物、職員浴場、コンプレッサー室など、閉坑以来、歴史が止まったままの廃墟の様な感じで、数年前まで管理もしてなかったので、所々、風雨や台風、地震などで壊れて朽ちており、立ち入り禁止のところもいっぱいだった。当時の新聞やポスター、エロ本まで鉱員のロッカーに残されていたりする。鉱員見習いがコンクリの壁に、発破(ダイナマイト)を入れるための穴をドリルで掘って練習した跡が生々しい。
狭い斜坑口から錆びた線路が伸びてて、その風景は前に写真で見た収容所に続く線路みたいだった。
横に無造作におかれたトロッコ電車が戦後最大の事故の要因となったそうで、石炭をいっぱい積んで上げてたら、ロープが切れて坑道を逆戻り、中で衝突して火花が散って、ガスに引火して大爆発となってしまった。
お爺さんにいろいろと聞いたが、坑道の中は夏も冬も30度程の温度で、よくあったのが熱中症で倒れることだという。また、腰にガス点検の装置やバッテリー、水筒など、10キロ近いものをぶら下げて作業するから、腰を痛める鉱員も続出したらしい。お爺さんも熱中症で何回かタンカで運ばれたと話した。
それだけに作業後、大浴場に入って、大ジョッキでグググイッとビールを飲むのが、何よりの楽しみだったと嬉々と語ってくれた。
鉱員と会社の職員とは別で、鉱員は劣悪な環境だったけど、当時で賃金が30万円近くの高給だったという。
お爺さんは疲れが溜まった時は、仕事に行くと家を出て管理棟で名札を出席にすると、そのまますぐに近くの飲み屋に走って夜まで飲んでサボってたと笑った。
気付けば元鉱員のお爺さんと2時間近くも話を聞きながらウロウロしてた。
その後、ついでに三池港の展望所や旧長崎税関跡、三池カルタ・歴史資料館(日本では大牟田市が始まり)にも足を運んで、ボランティア・ガイドの説明を受けた。
ほぼ一日中、昼飯も食わずに人の話を聞いていたので、めっちゃ疲れたけど、行って良かったと思う。
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