「この国の不寛容の果てに」
久々の処凛(カリン)ちゃんの本だが、まさに不寛容な現代社会を対談によって炙り出していて、なんともイヤ〜な気分にさせられた。
「日本は借金で金がないのに、全く生産性のない、社会の役に立たない重度障害者を生かしといていいのか?」という動機で、3年前に相模原の障害者施設で19人もの入所者を虐殺した植松被告は、過剰な正義と倫理を求める大衆から産まれたのでは、と捉えて、なんとなく「障害者は不幸しか作らない」と考えて、上を目指さずに、今のままの自分でいることがいけないことのように思わせる時代の雰囲気に警鐘を鳴らす。
まず、なんで他人の、社会の、国の役に立たなきゃならないと考えるのだろうか。そして、なぜ、常に上を目指さなきゃならないのか。今のままじゃダメなのか。疲れるなら下ってもいいのじゃないか。役立たずでもいいじゃないか。焦らなくても、不安にならなくても、人は生きてる限り必ず必要とされるものだ(ジジイ、役立たず、早く死ねやなんて親に対して言ってるわけだが 笑)。
「生産性」とか、「自己責任」とか、「迷惑をかけずに1人で死ね」とか、そういうギスギスした言説ばかりがネットを中心に流布してる。もう、「命を大切にしましょう」なんて言葉が虚しくなって、それを言うと「わかってるけど、現実はそうじゃない」と攻撃される世の中だ。
植松被告のめちゃくちゃな動機について、「殺人は最悪、彼は当然死刑だ」とする一方で、「でも、可哀想だけど、ああいう障害者ってどうなんだろう」と声には出さないが思ってしまう一般の罪もない多くの人々。LGBTは生産性がないなんて優生思想をいう政治家(そもそもこういう末端の政治家に生産性なんてあるのか?)とそれを雑誌に載せる出版社。怠惰からくる人工透析患者は死ねと叫ぶタレント。中韓をディスるヘイト言説…。これだけでも、この国は沈みつつあるのじゃないかと思わせる。
やっぱり、「このままじゃ将来危うい、生きていけないかも。だからこのままではいけない、もっと上に行かなきゃ。なんとかしなきゃ」という漠然じゃない、ハッキリとしてきた不安が、極端な正義や倫理を求めたり、自分が不愉快になることや人物、国に対して過激に攻撃的になったりするのではと思う。
俺なんかそういう不安の真っ只中にいるわけだが、まだアタマがお花畑で即物的快楽主義者だから救われてるのかも(笑)。
男と女、LGBT、健常者、様々な障害者、人種、民族、移民・難民、動物、AIロボットなどが排除し合うことなく共生できる雑多・雑種な社会が理想だ。
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。