「三島由紀夫日録」
マニアに近い三島ファンの俺には、日々の行動を綴った本は、棚に並べておく価値があるのだ。
誕生以前の家系から誕生(1925.11.4)、衝撃の死(1970.11.25)、没後(〜1996.6.23)まで。
産まれてすぐに、祖母に、強引に両親の手元から離された平岡公威(三島由紀夫)。祖母は、神経痛による激痛(祖父から移された淋病の影響)ですぐにヒステリーを起こすようになっており、公威を手元に置いて外には出さずに、古典ばかりを読ませていたという。
日録によると、祖母が寝てる間に、母が公威を外に連れ出して、何か不自然なことをしたようである。「この日母は、何事かを決心していたのではあるまいか」(心中?)としている。
それだけ母は祖母のやり方に苦しめられていたらしい。しかし、祖母の独善的な文学教育が、後の三島由紀夫を作ることにもなるのだ。
学校での公威のあだ名は“アオジロ”で、級友に「お前のアソコもアオジロだ」とからかわれると、公威は、チャックを開けてイチモツを取り出し、「おい見ろ!」と迫り、級友は(デカさに)ビビったそうである(笑)。
友人への手紙に当時、「最も自分の気質に合った小説はカフカの「審判」である」と書いており、三島がカフカの影響を受けていたことは最後まで明かしてない。
30代の頃、結婚前、複数の女性と交際をしていた。後に妊娠騒ぎや不倫もあったようだが、電話で知人に「初めて女性とセックスできた!」と興奮して話した一方で、海外旅行に出た時は、隠すこともなく開けっぴろげで、よく男娼(特に少年)を買ってホテルの部屋に連れ込んでいたという。
やはり三島はバイセクシャルだったのだ。「これからの人類の未来というものは全部、バイセクシャルになるんじゃないか。あと10年か20年もすると、それが普通の人間になるだろう」。匿名の小説「愛の処刑」も書いてる。
30代の早い時期から、「僕はもう死ぬんだ」と死への憧憬を覗かせている。
俺の誕生日(1964.10.14)の時は、「東京オリンピックの水泳競技取材」だって。
三島は、はっきりと「ノーベル賞が欲しい」といい、外国の知人に助力を願い出てもいる。しかし、川端康成が受賞して望みがなくなると、急に右の政治的な行動に走っていくことになる。
川端康成に、「楯の会」のパレードでの挨拶を依頼したが、「いや、ダメ。ダメなものはダメです。どうしても断ります」と無下に扱われて、家のものに当たり散らすほど、「裏切られた」と激憤したらしい。
「私は、文士として野垂れ死にはしたくない。少なくとも日本人として、行動を通して“空”とか“無”というものを把握していきたい」。
死の直前には、横浜の刺青師・彫錦に、彫ってもらえないかと電話をするが、一週間や十日で完全な刺青はムリと知り断念している。
三島由紀夫は、肉体と共に豪華絢爛たる美に造形されていたが、内側は“空虚”に蝕まれていたのだ。
脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。