「ハナショウブ」牧野富太郎『植物知識』
「ハナショウブ」牧野富太郎『植物知識』(青空文庫)より
ハナショウブは世界の Iris 属中の王様で、これがわが邦の特産植物ときているから、大いに鼻を高くしてよい。
アメリカでは、花ショウブ会ができているほどなのであるが、その本国のわが邦では、たいした会もないのはまことに恥かしい次第であるから、大いに奮起して、世界に負けないようなハナショウブ学会を設立すべきである、と私は提唱するに躊躇しない。
Iris 属中の各種中で、ハナショウブほど一種中(ワンスピーシーズ中)に園芸上の変わり品を有しているものは、世界中に一つもない。
これは独り日本の持つ特長である。
なんとなれば、ハナショウブを原産する国は、日本よりほかにはないからである。
実にハナショウブの品種は、何百通りもあるではないか。
ハナショウブは、まったく世界に誇こるべき花であるがゆえに、どこか適当な地を選んで一大花ショウブ園を設計し、少なくも十万平方メートルぐらいある園を設うけて、各種類を網羅するハナショウブを栽、大いに西洋人をもビックリさすべきである。
いまや観光団が来るという矢先に、こんな大規模のハナショウブ園を新設するのは、このうえもない意義がある。
従来、東京付近にある堀切、四ツ目などのハナショウブ園は、みな構えが小さくて問題にならぬ。
花ショウブは、元来、わが邦の山野に自生している野のハナショウブがもとで、それを栽培に栽培を重ねて生まれしめたものである。
ゆえに、このノハナショウブは栽培ハナショウブの親である。
昔かの岩代〔福島県の西部〕の安積の沼のハナショウブを採り来って、園芸植物化せしめたといわれるが、それはたぶん本当であろう。
しかしハナガツミというものがその原種だというのは、妄説であると私は信ずる。そしてその歌の、「陸奥みちのくのあさかの沼の花がつみかつ見る人に恋やわたらむ」の花ガツミはマコモ、すなわち真菰の花を指したもので、なんらこのハナショウブとは関係はないが、園養のハナショウブを美化せんがために、強いてこの歌を引用し、付会しているのは笑止の至りである。
ハナショウブの花は千差万別、数百品もあるであろう。
かつて三好学博士が大学にいる間に、『花菖蒲図譜』を著て公にしたが、まことに篤志の至りであるといってよい。
われらはこの図譜によって、明治末年前後のハナショウブ|花品《かひん》を窺うことができるわけだ。
そしてハナショウブを花菖蒲と書くのは、実は不正な書きかたで、ショウブは菖蒲から書いた名ではあれど、ショウブはけっして菖蒲ではない。
ハナショウブの花は、その構造はアヤメやカキツバタと少しも変わりはない。
ただ花の器官に大小広狭、ならびに色彩の違いがあるばかりだ。
すなわち最外の大きな三片が萼片で、次にある狭き三片が花弁である。
三つの雄蕊は幅広き花柱枝の下に隠れて、その葯は黄色を呈しており、中央の一 花柱は大きな三枝に岐わかれて開き、その末端に柱頭があり、虫媒花であるこの花に来る蝶々が、この柱頭へ花粉を着つけてくれる。
花下に緑色の一子房があって、直立し花を戴いている。
子房には小柄があり、その下に大きな二枚の鞘苞があって花を擁している。
ハナショウブは、ふつうに水ある泥地に作ってあるが、しかし水なき畑に栽えても、能くできて花が咲く。
宿根性草本で、地下茎は横臥している。
茎は直立し少数の茎葉を互生し、初夏の候、頂に派手やかな大花が咲く。
葉は直立せる剣状で白緑色を呈し、基部は葉鞘をもって左右に相抱、葉面の中央には隆起せる葉脈が現れている。
花が了と果実ができ、熟てそれが開裂すると、中の褐色種子が出る。
ハナショウブとは花の咲くショウブの意で、そしてその葉の大きさは、ちょうどショウブと同じくらいである。
ところが元来、菖蒲と言う中国名、すなわち漢名は、実はしょせんショウブそのものではなく、ショウブは白菖と書かねば正しくない。
そして菖蒲と書けば、本当はセキショウのことになる。
このセキショウはショウブ属(Acorus)のものではあれど、ずっと小形な草で溪間に生じている常緑の宿根草であって、冬に葉のないショウブとはだいぶ異なっている。
この水に生えていて端午の節句に用うるショウブは、昔はこれをアヤメといった。
そして根が長いので、これを採るのを「アヤメ引く」といった。
すなわち古歌こかにアヤメグサとあるのは、みなこのショウブであって、今日いう Iris のアヤメではない。
右ショウブをアヤメといっていた昔の時代には、この Iris のアヤメはハナアヤメであった。右 Acorus 属であるアヤメの名が消えて、今名のショウブとなると同時に、ハナアヤメの名も消えてアヤメとなった。
ハナショウブの母種、すなわち原種のノハナショウブは、関西地方ではドンドバナと称するらしいが、今その意味が私には判わからない。
人によっては、道祖神の祭りをトンド祭というとのことであるから、あるいはその時分にノハナショウブが咲くからというので、それでノハナショウブをドンドバナというのかもしれない。
ドンドとトンドと多少違いはあるから、あるいはドンドバナはトンドバナというのが本当かも知れない。
野州やしゅう〔栃木県〕日光の赤沼あかぬまの原では、そこに多いノハナショウブをアカヌマアヤメといっている。
このノハナショウブは、どこに咲いていても紅紫色一色で、私はまだ他の色のものに出逢であったことがない。
そして花はなかなか風情がある。