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灰皿
好きだった人がいたのです。恋人ではありません。身体を重ねたこともありません。しかしそこそこ仲が良くて、異性で、それなりに愛を囁くこともありましたし、時には嫉妬だってしました。殴るように感情をぶつけた夜もありました。いちおう、わたしは彼についてそれなりに知っているという自負がありましたし、それは彼もまたそうでした。とは言ってもわたしたちの仲など2、3年のものでしたが。好きな作家にちなんで、彼をKくんとでも呼びましょう。わたしたちにとって、実際にどれほど理解しているかなどどうでも良いものでした。きっとKくんもそう思っていました。私たちは2人だけの空気がここに在ることに浸っておりました。そしてお互いの存在は睡眠薬のようなものでした。投薬している間、辛い夜が少し楽になったのです。確かにそんな日々があったのです。
Kくんは、タバコを吸う方でした。たくさんたくさん吸う人でした。わたしはタバコなんていうのはよくわからないものでして、吸っていいと聞かれてうんいいよと矢継ぎ早に返事だけするのです。たまに、美味しいのそれと聞いてみたりもしました。すると別に美味しくはないよと、Kくんはぶっきらぼうに返します。彼の出す言葉の大半はぶっきらぼうで、しかし無視なんかは決してせず、言葉を確かにひとつひとつ選んでいました。小さな雑貨屋さんで大事な宝物をひとつひとつ探す子供のようで、そこがまた愛おしいのです。彼はいつもいろいろなものに苛まれていました。ひとつひとつ糸を解くようにしてみたりもしましたが、糸は逆に彼自身を守っていることもわたしはまた知っていました。向こうがこれを切りたいといえば鋏を持ちましょう。その糸が私自身なら、そのまま腹を切ってしまいましょう。本気でそう思ってみたりもしたものです。
しかし糸を指にかけて、その糸すら愛おしく思う器はわたしはきっとありませんでした。彼はきっと持っていました。これはわたしに足りなかった全てなのです。愛することは、責を有すること。歳の割に利口ぶっていたので承知はしていましたが、年相応にその重みを知らなかったのです。だから彼はいつも嗜めるように私を扱いました。
でもほんの一時期だけ、わたしに好きだと、愛していると云いました。あんなに残酷なことはありません。わたしのしていることは、人を愛するのは、罪悪なのだと、身をもって教えてくれました。体を蝕む熱気を孕んだアスファルトが、途端に目の前に迫ってきたようでした。あれは深い絶望そのものでした。愛された途端終わって仕舞う関係なら、最初からなくてもよかった。ではなぜ私たち、惹かれあったのでしょう?
答えは簡単です。ね、わかるでしょう。わたしはおくすりだったのですよ。病気そのものほど彼を苦しめる存在にも、彼を救う何かにも成れなかったのです。強いていうなら絆創膏で、彼の人生の応急措置で、しかしお風呂でふやけてしまえば捨てられるような、そんな女の子だったのです。Kくんが実際どう思っていたかは知りません。彼は私に好きだと云いました。きっと本当です。しかし、もし彼が今私のことを「そんな子もいた」などと形容することがあれば、それもまた本当なのでしょう。どちらも彼の言葉なのです。嘘ではないのです。私は好きな人の何者にも成れなかった。せめて傷つけてやればよかったのでしょうか。しかしそれほどまでには、私は彼を愛していないようでした。
ある日、Kくんに欲しいものはないのとそれとなく聞いたことがあります。彼は灰皿が欲しいと云いました。大きくて、縁に凹みがあると良い、タバコを置けるからと。そうなのわかった、そう云いました。その一ヶ月後、彼は私の前から消えてしまいました。彼の誕生日までまだ4ヶ月も残っている、梅雨の日でした。梅雨も明けて私は気づいたのですよ。灰皿を誕生日にあげようと思うような関係だったのです、わたしたち。誕生日以外にふと何かを買ったりするような仲ではなかったのです。街の雑貨屋を見て嗚呼好きそうだなだなんて思うことがなかったのですよ。だからこれまでだったのです。私もKくんも。
でも、でも、辛いのは、彼と電話越しにお互いに似合う花を選んだ夜をわすれられないこと。オダマキという花を選んでくれました。ふっくらとまあるくてかわいいお花です、よく見つけたものだなと思いました。オダマキがよく道端で見るものじゃなくて良かったと思いました。LINEのトークは非表示で、友達欄も非表示です。でもお花は非表示にはできないのだから。でも、あの時間、間違いなく愛だったでしょう。一人の夜にたまに思い出すのです。今晩またあの電話の続きをしようって言われたりしないかなって。
彼、今誰といるのでしょうか。あの少しスモーキーで落ち着く声は、泣く私を宥めた声は、私に愛してると確かに云ったあの声は、どこに向けられているのかしらん。ね、あなた、世の中って狭いんですって。案外すぐ近くに知り合いがいるかもしれませんよ。もしKくんと関わることがあれば、聞いてみて下さいよ。きっとわたしがもう会えることはありませんから。あの日の絆創膏があなたを守った夜もあるのですよって、そう伝えて下さいな。可愛い灰皿のブックマークはそのままなのです。