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鮪は夢をみる


どうしてこんなことになってしまったんだろうか。泳ぎながら考えている。いつからこうなってしまったんだろうか。考える。どこから先が私のせいでどこから先が他人のせいなのか。何かに影響されているのか、これが私の本質なのかもわからない。きみが悪い。人のせいにできたら楽なものである。ひれを動かさないと。手足を動かさないと。止まってしまいそうになるから。

鮪は愛を知っている。愛されているからだ。親にも友達にも恋人にも愛されてきた。体温と水はだいたいおんなじ温度。母を失えどその愛が廃れたことはない。だいたいおんなじ塩分濃度。彼女の植えた種が身を結んで私を支えてくれるから。えらさえ上手にひらければ。ここはとっても呼吸がしやすい。

でも、鮪は、どうして哉辛いのだ。生きるのが辛いのではない。海水が悪いのではない。息を吸うのが辛い。えらを開くのが辛い。自分を甘やかして、本気で生きることから逃げた。そしていざ戻ろうとしてみれば、真っ当な努力のなんと辛いことか。突き進めるのは若さだったのだろうか。鮪は、実は知っている。これは贖罪である。やり直しのきかないこの世界で、正解を教えてもらえないままに泳がされている鮪が、一番堕ちてはいけない海に堕ちてしまったことに神は怒っている。鮪は落ちたことなんて知らなかった。海は「地続き」であるから、気づいたら入ってしまっていたのだ。無知であることもこの世界では大罪であった。



鮪は知っている。その小さい体をもって知っている。どんな海でも泳ぎつづけていることには変わりないのだ。ずっと手足を、嗚呼、えらを動かしながら、死んだように生きている。浮かんでいるだけのようで、泳いでいる。だからもう疲れてしまったのだ。考えながら泳ぐのは、とっても辛い。考えることを教えてくれる海に産み落とされてしまったら、もっと辛い。そういえば、そもそも、私の故郷は海だったかしら。わすれてしまった、嗚呼、違った、水族館でした。彼ら、超えられない壁越しに、みんなわたしを可愛がってくれた。生まれたら名前なんてつけて、喜んでくれた。いや、違ったんだっけ。疎まれていたんだっけ。此岸からじゃあわからないの。くぐもって上手く聞こえないから、ちゃんと教えてほしい、貴女の言葉で、声で。鮪は、気づいた時には大海にいたのです。


鮪は、自堕落に生きていきたいとは全く思わない。なぜなら堕落とは制約から生まれるもの、或いは苦労から生まれるものだから。自分が経験していなかったとて、存在すれば相対性を帯びる。平日があるから休日は楽しい。休日があるから平日は憂鬱。自堕落すら憂鬱になったらどうなるであろう。反発して厳格になるのか、更に堕ちてゆくのか、或いは死ぬのか。死んだって構わないけれど、死が堕落の先にあったものでしただなんて言えたものではない。私が、虹の終点を探すように堕落の終点なるものを探してみても良いのかもしれないが、それは並の努力より厳しい修行だろう。虹は海の中には降りていないのだ。あれは陸にそびえているものなのだ。映る虹に当てられて自分が光ったように見えました。笑われてしまうだろう。ななびかり。虹って、本当に七色あるの?鮪にはわからなかった。見たことが無いから。



鮪は考える。戻れるのかなあ。まあ、戻れなかったとて泳ぐことをやめるなんて、できないのだけれど。生きたくは無いね。泳ぎたくは無いね。ここに生まれゐづる悩みだなんて言葉を当てるのは、寡学がすぎるね。せざるを得なくてそうしているだけのことを、堂々とやっていますだなんてね。ね、ね、わたし、海月になりたいです。うみのつき、海の尽き、陸かな、ううん陸じゃないよ、陸じゃないの、あのね知っている。陸に上がる方法があるらしいんだ。そいつはとっても難しいんだそうだ。陸には雨というものがあるらしい。ぽつぽつしていたり、どしゃぶりだったりするらしい。こちらは毎日水に揉まれているから、どんなものか想像もできないんだけれど。とってもあったかいんだそうだ。こちらには割と身近に海の月があるけれど、あちらでは月が遠い代わりに太陽がはっきり形をもっていて、カーテンのようなものでは無くて、なによりひとつだけしかないらしい。


鮪は知っている。神様は鮪を簡単に陸にはあげない代わりに、泳いだまま夢を見られるように謀らってくれたことを。なんにせよずっと泳いではいるから、なかなか境界がわからなくなって難しいんだけれど、夢を見られることはうれしい。

今、鮪は海月である。泳いでいない、浮かんでいる。罪悪感だなんて足枷を持たず、深海に堕ちゆくわけでもなく、ただ流れている。産み落とされた時にはすでにそうであったのだというように。鮪は己の罪を知らない。されど海月のもたぬ足枷をしっている。傲慢である。されど愛を知っている。鮪はえらを休めることはできない。されど夢をみる。朝なのか夜なのかはよく判らない、海は暗いから。今、鮪は海月である。生きるために泳ぐのではなく、泳ぐことを知らず、ただ浮かぶのだ。こんな夢を見た。

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