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二人の父親(『編集者・石川知実の静かな生活』)

 あたしには二人の父親がいる。生物学的な父親と、母親の再婚相手としての父親である。

 一番目の父親についてはほとんど記憶にない。あたしが小学一年の時に蒸発したからだ。
 かすかな記憶や、残された写真からすると、幼い頃のあたしをよくハイキングや海水浴やスキーに連れて行ったようだ。そのおかげか、今でも水泳とスキーはあたしの得意スポーツだ。だがどのような理由で蒸発したのかはまったくわからない。母は何も語らなかったし、あたしもあえて聞かなかった。しかしどのような理由があれ、母とあたしを捨ててどこかに行ってしまった父親はクソである。

 母子家庭になったあたしたちは、同じ札幌市内に住む、母の両親のもとに転がり込んだ。祖父は銀行員で定年を迎えたので年金は不自由なくあり、母も独身時代に働いていた会社に再就職したので、あたしは金銭的には取り立てて不自由なく過ごすことができた。ただ、自分の家が母子家庭であることは十分理解していたので、何かが欲しいとか、何かを買ってくれということは、母にも祖父母にも一切言わなかった。

 あたしが小学六年に上がった頃に、母から再婚したいと告げられた。相手は母の高校時代の同級生で、今は東京にいるという。あたしは一切実感がないまま、それを受け入れた。
 父親が失踪したままだったので、母は相手不在のまま離婚の行政的な手続きをとった。そのためあたしは一時的に母の姓である奥村を名乗った。もっとも祖父母も奥村姓なので違和感はなかったが、その数ヶ月後には新しい父親の姓である向井姓を名乗ることとなった。
 あたしが中学に上がるのと同時に、母とあたしは東京に移り、新しい父親と、その娘、つまりあたしの姉になる人と暮らし始めた。あたしはこれまで北海道から出たことがなかったので、東京での生活に憧れの気持ちを持っていたのは正直なところである。
 新しい父親は銀行員だったので、当時四十代前半あったが経済的には裕福で、二十三区外ではあったが京王線沿いに一戸建ての家を構えており、あたしにも一部屋があてがわれた。新しい姉はあたしより四つ上の高校生で、幼い頃からギターをやっていた。姉とはすぐに仲良くなり、それまで知らなかったジャズやロックを教えてもらった。
 あたしは仙川にある中高一貫の女子校に入学した。家からも近く、通いやすかったので、引っ越す前に一度東京に来て受験し、無事に合格できた。
 それなりに平穏な中高の生活を送り、大学受験にあたっては京都の大学を選んだ。もともと京都の町や日本美術に憧れていたのが理由であるが、無意識のうちに早く家を出たかったのであろう。大学には無事合格し、あたしは京都で暮らし始めた。
 大学を卒業し、東京の出版社に就職することになったので、あたしは東京に帰ってきたが、実家には戻らず、駒込にワンルームを借りて暮らし始めた。もちろん実家も近いので、たまに帰ってご飯を食べたり泊まっていくこともあった。姉は大学を出てから就職せず、しばらくバンドでギターを弾きながら実家で生活をしていたが、あたしが東京に戻って二年ほどたった頃に、アメリカ人のテナーサックス奏者と結婚してアメリカに渡った。実家は両親二人だけになり、母は美大の通信課程に入学した。母は服飾の専門学校を卒業したが大学には行っておらず、それでも勉強熱心な人で、独身時代にはフランス語を学んだり油絵を習ったりもした。絵はしばらくやめていたが、家庭のことも手が離れたので再び向学心に火がついたらしい。五年かけて通信課程を修了し、大学卒業の資格を得たのだから大したものである。
 
 そんな母が亡くなったのは、あたしたちが結婚した年の暮れだったので七年前のことである。
 その年の四月に、あたしと健太はハワイのホノルルで結婚式を挙げた。その直後の五月の人間ドックで膵臓がんが見つかり、余命半年という診断だった。急速に衰えた母は十二月に亡くなった。
 本来であれば母はいつも一月に人間ドックを受けていたのだが、四月にあたしたちの結婚式をひかえていたので、五月にずらしたのだと後で聞いた。一月に受診していればもう少し早く病巣を発見できたのかもしれなかったので、そのことはあたしの中では負い目として、今でも心の中に引っかかっている。もっともそれで母の寿命がどのくらい変わったかは分からないが。

 母が亡くなり、父は男やもめとなって実家で一人暮らしとなったので、あたしも仕事終わりの時間を見つけては、実家に寄って父と夕食を共にしたり、母の遺品を片付けたりした。元はといえばあたしと父とは血のつながりのない他人であり、親子仲は決して悪くはなかったが、そうは言っても男と女なので、母がいた時には感じることのなかった微妙な居心地の悪さも感じ始めていた。
 母が亡くなって二年目、あたしと健太は年末年始を過ごすために実家を訪れていた。大晦日の夕食を食べている時、父はこう告げた。
「実はお父さん、再婚しようと思っているんだ」
 そう言って父は、スマホで写真をあたしたちに見せた。父と同じくらいの、六十代前半くらいの女性だった。ただ、母とは全然似ていない。母はボーイッシュでスレンダーな女性であったが、そのスマホの写真の女性はふくよかな女性だった。
 その後、父は馴れ初めを語り始めた。ひとしきり語った後、意見を求めるかのように間を置いたので、あたしはこう答えた。
「いいんじゃない。でもあたしたちには迷惑かけないでね」
 その時のあたしは、この言葉にそれほど悪意を込めたつもりはなかった。しかし父はあたしのこの言葉に激しく反応し、顔を真っ赤にして怒り始めた。
 それから父はあたしに対し数々の怒りの言葉を浴びせた。恩を仇で返す気かとか、これまで育ててやったのに何だその態度はとか、色々言われた気がする。それを黙って聞いているうちに、あたしの中で何かが冷めた。
「健太、帰るよ」
 あたしは立ち上がり、部屋に戻って帰り支度を始めた。健太は驚いておろおろして、何とか間を取りなそうとしたが、あたしは聞く耳を持たずに健太の荷物もまとめて、無理矢理彼を引きずるようにして家を出た。
 目黒の家に帰っても、年末年始の用意は何もしていなかったので、とりあえずワインセラーにあったメルローを一本開けて、チーズだけをつまみに飲み始めた。健太も付き合ってくれたが、三分のニくらいはあたしが飲んだ気がする。翌日の元旦は遅く起きたが、冷蔵庫の中には食材もほとんどなかったので、ブランチはレトルトのカレーで済ませた。午後には小麦粉を出してきて餃子の皮を打ち、冷凍してあったジビエのひき肉と、野菜室に転がっていた玉ねぎ、にんにく、しょうがでタネを作った。そしてひたすら餃子を包む作業に没頭した。

 一月ほどして、父から手紙が届いた。封を切る前から予想はついていたが、案の定、年末に言われたことと同じようなことが書かれていたので、あたしは返事を書かなかった。
 さらに三月ほどした頃に、父からLINEのメッセージが届いた。そこには簡潔かつ事務的に、件の女性と籍を入れる予定だということが書かれていた。あたしは、養子縁組を解消したいとメッセージを返した。しばらくして父から承諾した旨のメッセージが届いたので、役所に「養子離縁届」を提出する日取りを決めるメッセージを送るとともに、実家にある母の絵を一枚もらいたいと書き添えた。
 役所に行く当日、あたしは車で実家に向かった。父とは事務的に会話を交わしつつ、母のアトリエに上がった。
 母の絵は、美大の制作で描いた百号サイズのものが多い。さすがに木枠に取り付けたままだとかさばるので、板のパネルに重ねられ、釘で打ち付けて保管されていた。その中から、あたしの一番のお気に入りの作品『放蕩息子』を取り外すと、シワにならないように軽く巻いて紐で縛り、自分の車の助手席を倒してそこに積んだ。
 残りの絵は心残りだが置いていくしかなかった。あたしが持って帰れるのはせいぜいこの一枚である。残りは、捨てられるかしまい込まれるしかないだろう。それでも一枚でも、母の形見を残すことができた。
 これで実家ともさよならである。中学高校を過ごした家なので多少の感傷はある。しかしこの時、あたしは違うことを考えていた。

 この家は誰のものなのだろうか。少なくともこれであたしのものでなくなったのは確かである。では父のものなのか。そしてこれから父と一緒になる女性のものにもなるのか。
 しかしこの家を築いてきた努力の半分は母のものである。法的にも、夫婦で築いた財産は夫婦の共有財産である。母は父と二十年間結婚生活を送った。その間の父の収入は、年収で計算すると一千五百万円くらいだったろうから、この間に夫婦で稼いだ収入は三億円くらいになり、そのうちの半分の一億五千万は母の収入とみなすことができる。
 しかし父はそんなことは微塵も思っていないだろう。自分が稼いだ収入は、すべて自分のものと思っているだろう。世間でもそう思っている人の方が多いだろう。
 しかし母の専業主婦としての二十年間の労働は、収入としてはゼロなのだろうか。あたしは釈然としない気持ちにとらわれた。

 その後、あたしと父はそれぞれ自分の車に乗り、市役所に向かった。窓口に「養子離縁届」を提出し、職員が書類に不備がないか確認した後、運転免許証で本人確認をして受理となった。手続きはあっけなく終わった。
 市役所を出る時、あたしは父に「これまでお世話になりました」と言って深々と頭を下げ、反応を見る前にその場を離れた。駐車場の自分の車に乗り込み、アメリカの姉に顛末を知らせるLINEのメッセージを送った後、姉のアカウントをブロックした。姉に対しては何ら悪意はないが、こうするのがおたがいのためだと思った。続いて父のアカウントもブロックした。
 これで向井の家とも完全に切れたわけだ。思えば、あたしの名前も、生まれた時の佐藤知実から、奥村知実を経て向井知実となり、そして今の石川知実となった。石川の姓を名乗るのは自分の意思であるが、それにしてもここまで名前がコロコロ変わると、あたしのアイデンティティは何なのだろうと思ったりもする。

 百号の絵は、目黒のマンションでは想像していたより大きく見えた。しかし次の土曜日には健太が画材屋で百号の木枠と大型のホッチキス、そしてキャンバスを張るクリップを買ってきて、パネルに仕立ててくれた。そしてその絵は寝室として使っている和室の壁に飾られた。
 作品のタイトルは『放蕩息子』である。新約聖書の、イエス様の例え話に出てくるエピソードである。母の作品はすべて聖書から題材が取られているが、その中でもあたしが気に入り、今この状況で引き取ったのがこの絵であることは、皮肉な巡り合わせでもある。
 絵で描かれているのは、放蕩息子が家に帰ってきて父親に抱きしめられているシーンである。しかしこの絵を見ると、父親は母に、そして放蕩息子はあたしに、それぞれ面影が似ているように感じられる。

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