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#58 お墨付きバイアス

名盤を買う

何かを選ぶとき、味わうとき、お墨付きに弱いという自覚がある。

例えば、自分が知らない音楽に出会いたいとする。
そんなとき、現代の新しい音楽から探そうとせず、まだ聴いたことのない古いジャズの名盤を買って鑑賞しようとする。時が経っても色褪せなかったという「間違いなさそう」なモノに手が伸びる。
🎺

お墨付きがあると安心して手が伸ばせる。自分の眼力に自信がないからだろうか…。

入手したあとには自分の感覚は置いておいて、「これが評価の高いアルバムか…」などと、他者評価や意味の方から鑑賞してしまう。そして軽く聴いて分かった気になり満足する。
自分がどう感じるかにあまり向き合っていない。

また仮に、それに対してピンと来なくても
「これがいいと思えないのは、自分の理解が足らないからだろう…」
と捉えることさえある。
いいとされているあっちが正しく、理解できないこっちはついていけていないだけ、というように。
他者評価が基準になってしまっている。

脈々と続いてきた人類の文化遺産に対して、ありがたがって接している感覚だ。
むしろ無名で評価がついていないモノの方が、自分の感覚で味わおうとするのだろう(が、そこを発掘しようとはあまり思えない)。

しかし、ありがたがって接していると、あるとき見え方が変わり、「なるほど!」と思えることも多い。最初にピンときていなくても、どんどん惹かれていくことも珍しくない。

お墨付きに引っ張られることはいいのか悪いのか分からない。
それでも、もうちょっと自分がどう感じるのかに丁寧に向き合った方がいい気がする…。


正解という色眼鏡


他にも似たようなことはある。

例えば、何か新しく日用品を買う必要があるとき。
新しい技術の影響が大きい家電製品以外は、昔から評価されているプロダクトから「正解」を探し、購入を検討する。ここでも評価が安定したものを求めてしまう。

お墨付きに引っ張られ、手に入れたら、やはり対象に深く向き合わない、という同じ状況になる。

こういったお墨付きのモノについて考える際、TKSくん(過去の記事でも触れた雑貨店を営む友達)が言ったことを思い出す。

マグカップの定番として有名な、フィンランドのメイカー「イッタラ」の「ティーマ(300ml)」について語ってくれた話だ。
僕の中でティーマは「正解」だ。しかしTKSくんは「ティーマのマグは取手の部分がやや大きくて日本人の手にはしっくりこない」的なことを言っていた。

その言葉にハッとした。感覚がフラットだなぁ、と。
僕ならば、「ティーマのマグだからOK」となる。多少の使い勝手の悪さも、それがティーマのマグらしさだ、それを味わおう、と捉えてしまう。

いや、そもそも、疑いもしない。なので、使い勝手について向き合うこともしない。というか、現にそうだった。
今回の写真が愛用しているティーマなのだが、持ち手の感触を丁寧に味わったことはなかった。言われて確認してみると、現にちょっと大きく感じた…。

TKSくんの思い込みや決めつけに陥らず、目の前の現象を冷静に見つめていることに、とても感心した。

お墨付きとの付き合い方

お墨付きに引っ張られることはいいのか悪いのか?
ここまで書いてきて、悪いことだとは思わなくなった。
むしろ、いいモノに出会える可能性が上がる指標になり得る。
(当たり前の話だが)

時の流れをくぐり抜けてきた人の創造物は、携えているその強度に理由があるはずだ。
その強度がどこからくるのかを知れば、クリエイターの哲学やモノが持つストーリーなど、その先のより深い部分を味わうことができる。
先人の凄さに感動し、喜ぶこともできる。

ただその反面、お墨付きのあるモノは、こちらの感覚を曇らせてしまうことも事実だ。
評価されたモノを手にしただけで思考停止にならないよう気をつけたい。
そこには、それが持つ面白みの本質はないはずだ。
お墨付きがあるモノであればあるほど、無名で評価がないモノに向き合う態度でいたい。自分はどう感じるのか、という自分の感覚で味わうことを忘れないでいたい。

お墨付きバイアスを、これからも新しい世界に出会えるチャンスとして活用して行こうと思う。だが、そこで感覚が鈍るバグが起きることを自覚しておく必要がある。
お墨付きに振り回されつつ、自分の感覚にも素直に、その双方を振り子のように行き来することが現時点での僕の理想だ。

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tomohonote
最後まで読んでいただいてありがとうございます。