「相手を尊重する」の尊重って具体的に何ですか?食べれますか?
「相手の意見を尊重しよう」とコミュニケーションについてのノウハウにはよく書いてあったり、目上の人からのアドバイスとして受ける事も多い。
けどよく考えてみたら尊敬するって何をする事なのだろう。とここ数日考えていた。「尊重する事って大事だよね〜」と言えば「そうだよね〜」となる。もはや水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか!」くらいな威力を感じる。
こんなふうに思考の深い人間っぽく見せておいてただ捻くれると言うことが僕には時折ある。
そんな誰得でもない豆知識はいいとして、「尊重する」ってなんぞやという話。
僕の今の時点での考えは、尊重するというのは……よくわからない。
少なくとも数日前までは、尊重するというのは嫌いな食べ物でも我慢して飲み込むような意味合いを持っているような感覚が多少あった。更にいえばマスタベーション的な自己満足も併せ持っているような気もしなくもなかった。
僕で言うところの、宇宙一嫌いな食べ物であるトマトを、体に良いからと理論整然と説明されて無理やり食べて水で流し込む感じだ。実際トマトだったら飲み込めずにリバースする。
まあ流石にそこまで嫌なことではないにせよ、紋所のようかざされた際の尊重というワードに対しては、何処か多少の息苦しさの様なものを感じていたのは事実だ。
なんというかここまで書いてきて浮かんだのが、尊重とは「混ざり合う」事なんじゃないかという仮説。
例えばイチゴと大福餅を混ぜたらイチゴ大福になるような。各々は全く違くても混ざり合ってより美味しいくなる。もちろん別々でも美味しいけど、混ざり合うからこその美味しさが生まれる。謎を深めたような気もするけどそんな感じ。
更にいう混ざり合うというのも受け身ではなく積極的に。かと言って押し付けなくていい。コーヒーにミルクを溶かし混ぜる様に綺麗に混ざらなくていい。イチゴ大福のような。なんなら水と油を一生懸命かき混ぜて一瞬混ざり合ったくらいでもいい。
そんな感覚が浮かんできたし、今の僕はそれが心地良くて腹に落ちる。考察を深めるためにとりあえずイチゴ大福を食べてみようと思うけれど、水と油を一心不乱にかき混ぜるのはやめてとこう。家族からついにそうなったかと思われそうだから。