「地域の首都」感
毎年7月の連休は大学院のゼミ生とフィールドワークを函館で行っている。地域研究のフィールドとして西部地区を巡ったあと、調べ事もあったので数日函館に残っていた。そんななか瀧澤酒店さんで素敵な出会いをし、はしご酒をしたADDICTでこれまた奇縁があった。地域研究で地元の函館を勉強しなおそうと思ってから縁が広がり続けている。ありがたいことだと思いつつも、この縁は函館のサイズ感が関係しているようにも思う。偶さかTwitter(いまはXというらしい)で、ローカル食図鑑(@kKMGOS77Izd8aBH)さんが「地域の首都」という投稿をされていた。「人口16万人以上・大都市圏の衛星都市・県庁所在地・近隣に同程度規模の都市が複数ある」都市を除いて、どこが該当するか大いに盛り上がっていた。北海道では稚内・北見・室蘭・静内・中標津などがあげられていたようだ。それぞれに興味深いものの、前述の要件でいえば人口16万人以上というのを除けば、函館はまるっと当てはまるのではなかろうか。県庁所在地ではないものの、近代において北海道の顔としての側面もあった函館こそ「地域の首都」感がもっともあるように思う。現在の市域は広いものの、狭い市街地のなかに人々がぎゅっと住んでいて、江戸末期から発展した歴史と文化が醸成されてきた。そして昭和までに育まれた文化が良くも悪くも停滞し、残り香を漂わせている。地域の中核都市というよりも、地域の首都というのは言い得て妙なものである。
「地域の首都」に函館こそふさわしいのでは?としたが、やはり重要なポイントはサイズ感ではないだろうか。次に数字からみてみよう。国勢調査を確認する。昭和9年にいわゆる「函館大火」のあった翌年の国勢調査をみると人口の第1位は東京市の5875667人。2位が大阪市の2989874人。以降、名古屋市、京都市と続く。ここまでが100万人以上の都市である。函館市はというと13位であり207480人。函館大火で大きなダメージを受けていたものの、20万人を超えている。札幌市は15位となっており、この時点で函館は道内筆頭の都市を維持している。ひるがえって面積はどうか。第1位は東京市で550.85k㎡。ダントツである。第2位は京都市の288.65k㎡で大阪市、名古屋市と続く。函館市はというと18.80k㎡となっている。人口は13位であるもののずいぶんとコンパクトである。18k㎡というと現在の新宿区とほぼ同サイズとなる。そして驚くのが人口密度である。人口密度は単位面積となる1k㎡あたりに住む人口だが、人口1位の東京市は10667人なのに対して、函館市は11036人となり東京を凌駕している。人口密度でいえば当時の国内では5位となる。まさにギュっと凝縮されたコンパクトシティといえよう。こうした姿こそが函館の魅力を形成した要因といえるのではないか。また、魅力が維持されていた要因を考えると、函館山から扇状に広がるトンボロ地形であり奥に広がるしかないことと、もう一つ。これはあくまで仮説だが、大火の影響があるのではないだろうか。
大火とコンパクトシティ。
「函館らしさ」を考えてみたい。そもそも函館は明治時代以前から内地に名前の知られる存在ではあったものの権力の所在地という訳ではなかった。幕末の開港地として異文化や物資が流入し、それに伴って産業が発展し人口が流入する。函館は常に人口流入が激しい都市だったといえる。それは前述の国勢調査でもわかる。昭和9年の大火の翌年であっても20万人がいるというのは、それを示しているだろう。次に地形である。典型的なトンボロ地形であり、函館山の山麓から発展した都市はサイズを広げるためには扇状に広がる必要があるものの、大火のときにはまだ五稜郭も湯の川も函館には含まれていなかった。
コンパクトにギュッと人が詰まった都市、それが函館である。もし度重なる大火がなく発展した場合、現代のように中心地は五稜郭、美原へとスライドしていったことだろう。しかし戦前においては度重なる大火によって、コンパクトな都市を維持したまま再生がはかられていく。貿易港と北海道の玄関口、また漁業といった下支えできる経済力があったからこそであり、否応なくスクラップアンドビルドがなされていた。そのため同じ狭いエリアの中で都市は成熟していく。函館大火以降は繁華街や住宅地も広がっていくが、戦前までの函館の地域、つまり旧市街地は大火からの復興のグラディエーションを保ちつつ、濃縮された空間を維持できた。大火はいたましい災害であるものの、一方では大火によって同エリアに復興がなされ続けたことが、函館らしさを醸成した要因にもなっているのではないだろうか。