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ぐんしょ

調べ事で『ぐんしょ』をめくる。子規や碧梧桐の群書を買おうとする話は腹を抱えて笑えるほど面白い。いまも昔も変わらないのね。

 明治三十八年日乗  河東碧梧桐

二月十二日 数日前、大阪墨水に此月末迄に金子十円借りたしと頼みやりしに、早速きのふその金を送り来る。其返辞かたゞゝ、左の如きものかきて送る。

早速願ひをかなへて貰うて難有い。きのふ着いたから安心して呉れ給へ。実は其後東洋歴史学彙なるものを見た処、存外つまらんもので、こつちで惚れ込んだ程ではなかつた。一分備へて置いてもよいけれど、どうも七円を出して買う気にはなれん。そこで、君の方へもうよしたからというてやらうと思ふ処へ、端書が来る、金が来るといふことになつた。其処でこの金をどうしたらと、ゆふべつくづく考へた。返さうか、折角贈つて貰ふたものを返すのも君が何とか思うては困る。それならどうしたものかととつおいつであつたが、丁度きのふの新聞の広告に、群書類従の予約をして居るのを思ひ出して、これに加入する事にきめた。

それはこの廿五日迄に五円払ひ込んで、あとは二円宛七回、毎月払ふのだ。都合で十九円になるのだ。それで先づ半額の処分はついたが、あと五円をどうしたものかと尚ほ広告を見ると、此度群書類従の予約をしたものには、人名辞典を八円にまけて売るとある。元来君に金を請求したのは、字書を買ふ筈であつたのだから、その人名字書が如何にも欲しくなつたが、三円という大枚の金を追加せねばならぬ。

今懐中にある三円の金はあるが、これを吐き出す事になると、今月の小使がなくなる。米代も足らん。どうしたものかと再びとつおいつだ。

かういふと、高が三円や五円の金に気苦労するやうでカラ意久地はないのだから仕方がない。打開けた処が、再び君に請求も異なものだしと言つて、外に無理に都合する程の事でもなし、それぢやというて人名字書でも買ふたと言はなければ君に顔が立たぬ。

えゝまゝよ、小使や米代はどうなかなる時があらう思ひ立つたが吉日で、かういふ時に買はなければ一生買へるもんぢやないと、自分では糞度胸を据ゑた積りで、とうゝゝそれにきめて、三円吐き出すことにした。

その時の心持は何といふ事ない、馴れない船頭がナラヒに乗り出したやうな始末で、この先どうなるかなと内心ビクヽヽものさ。つまらんことに頭を労するやうであるが、これでも人に金をかりて、それになけなしの懐中を倒さにして、米代の事などはどうでもよいとして本でも買はうといふ決心をする処などは、我ながら見上げたものだと感心して居るのだ。

近頃は発句の悪口を言はれる。老成したとも言はれる。俗化したとも言はれる。何とかかんとか言はれどうしなのだから、せめてこんなところで自分を慰めでもしなけりヤ立つ瀬がないというものだ。ねえ君さうぢやないか。

人名字書がもう床の上に飾られて、群書類従がずらりと並らんでいる処(まだ買ひもせぬが)を想像して、独りホクヽヽ笑んでいるざまなどは寧ろ罪がなさ過ぎだらう。株券を併べて独りで嬉しがつているより少しはましぢやと思ふ。

我輩もまだ俗化してもこれ位の程度だから、俗化もわるくはあるまいと自分免許さ。それといふのも近頃は何だか本が読み度くて々々夜も日も堪らんのぢや。

それでも朝は日本の俳句を見る。昼からは出社する。日暮れて帰つて来る。グッシャリするといふやうな始末で、更に本を読む時がないやうゝゝ寝る前に床の中で、何やらかやら拾ひ読みをするといふわけだ。此程も水滸伝の金聖歎の批評を読まうと思うて、一の巻をひろげる始めに序が三つ計りあるが、それを読んでも今更自分の文字のないのにたまげてしまふた。汗牛充棟といふことは知つてゐたが、こゝには壊牛折軸とある。連閣複室とある。(中略)一寸五六枚ひろげて見ても自分の知らん熟語名句が山のやうに出て来る。堪らん堪らん々々々々々々。飯を食ふこともやめて本許り読んで居たくなる。こんな風では水滸伝の本文にはいつたらどんな事になるだらう。君堪らんぢやないか。

が併し僅に序文五六枚を読んだのに過ぎぬが何だか大層学問したやうな気がして、つまつてゝゝゝゝ石のやうにコビリついて居た胸の中が、何処となく針の穴程のすきが出来たやうに思はれて、それでもスーツとした心持だ。若しここに美の神と文の神とが居て、我輩のこの様子を見て居たら感心な心がけだというだらうか、哀れむべきものだといぬだらうか。そんな事はどうでもよい。兎に角我輩が米代を本代にする心の中が少しは察して貰へるだらうと思ふ。

 此日上野三宜亭にて俳会あり、夜分のみ列席。席上句空うらゝ草を摘んでは仰ぎけり

荒川修一郎「河東碧梧桐借金で群書類従予約」より(『ぐんしょ』4号)


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