映画『ホームレス理事長』についての感想のとある方への私信

おくればせながらホームレス理事長を観た報告です。とても面白かったです。撮影対象に対して素直に構成されたドキュメンタリーでした。
ノーナレーションとあいまって、丁寧に描かれる映像のディテールが力を持ち、魅了されました。

電気の止められた理事長の自宅、球児たちの面構え、ネットカフェでハンガーにかけられた服、金策に向かう車内、児童養護施設のこたつ・・・いいドキュメンタリーに必ず感じることですが、よけいな言葉や意味付けを排したことによって立ち現れてくる全てのたたずまいが雄弁にこちらに語りかけてきました。

優れたドキュメンタリーを視るたび、また、自分でドキュメンタリーを撮っていてぐっとくる瞬間に遭遇したとき、いつも感じることですが、この感覚の数分の一でもフィクションを創る美術部の人達が感じ取り、自分たちの仕事にとりいれてくれたらと思います(私はだからいつも美術部と相性がわるい)。

あと、この映画の出色はやはりカメラワークだと思います(撮影は中根芳樹さん)。冒頭の不良球児の恫喝にひるむこと無く逆に追いかける肝の座ったカメラワークで映画の構えを代表してみせるところから始まり、信頼関係を踏まえて上での理事長宅への突っ込みや、唐突にはじまる監督の体罰シーンでの確信犯的なカメラの安定感、話題となった理事長のスタッフへの金の無心のシーンなど。
スタッフへの金の無心自体は別に衝撃的だと思いませんでしたが、その後の理事長の嗚咽を引き出したカメラワークは映画的に出色でした。「スタッフへの金の無心を撮ってる監督がすごい」という評論も見かけましたが、このシーンに写っているのは100パーセントキャメラマンのクリエイティビティで、監督の演出は無関係です(監督はそもそも撮影を中止しようとしていた気配さえ映像に残っている)。編集時にはこのシーンやっぱり使いたくなるでしょうし。

評論家の方々は上品でナイーブな世界で生きてらっしゃると思うのでこういう切所の経験等皆無だろうから「金を無心されること」自体に動揺されるのでしょうが、ドキュメンタリーを長年やってるとこういう局面に遭遇することはよくあるし、私自身も色んな選択をして来たし、この程度の選択が決定的な何かを引き起こすことも多分無いと思います。むしろ映画として重要なのは監督がひるみ、録音マンが収録を中止しようとするのをむんずとつかんで押し戻す中根キャメラマンの全人格に濾過されたキャメラワークのクリエイティビティです。映画には結局それしか残りません。そしてそれはキャメラマンにしか創造出来ないです。監督が自分でカメラを回していたらゼッタイ出来ないシーンでしたね。この場面は中根さんがいなければ成立しなかったシーンでした(小川紳介の後期の映画が田村正毅のカメラワークがなければ絶対に成立していなかったのと同じく)。ここは何度強調してもしすぎることは無いと思います。

キャメラマンが映画を撮る側と撮られる側の関係性自体を、そこに潜む世界の実相をあぶり出す意識を持って映像に定着させることによって世界が開示される。この、ドキュメンタリー映画の本質をわたしは小川紳介監督の作品で、田村正毅キャメラマンのカメラワークを目撃して天啓のように悟りました。だからドキュメンタリー映画の真の創造者はキャメラマンであると確信しました、演出家はむしろ、撮リ手の世界観を代表する出演者(つまりドキュメンタリー映画における部分の代表者)と思っていました。この考えは22年たった現在も全く変っていません。私はだからキャメラマンを志望したのでした。

学生時代は演出を専門に学んでいたのを知った人たちから、「何故演出家志望だったのにキャメラマンに」?とよく聴かれますが、わたしの意識としては、演出家志望だったからこそ『ドキュメンタリーの真の創造者たるキャメラマン』を目指したのです。逆になんで他の人はそう思わないの?とすら思います。

プロデューサーをやったりディレクターをやったりもしますが、誤解を恐れずにいえばその目的は「キャメラマンである自分のクリエイティビティを発揮させる場を、自分自身で用意する」ためといってもいいかもしれません。

ざっくりと、とりとめないですが、つまりは「ホームレス理事長」はとてもいい映画だった、ということです。機会があれば是非見ていただけたらと思います。

もしよろしければ、サポートをお願いいたします。サポートいただいたお心を受け止め、更なる映像撮影の探究に向け、いっそう精進してまいります。