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『僕らのシエラ・マエストラ 若松孝二と闘った映画のゲリラ戦記』 その3

 「辻さんは言うことを聞きすぎるんですよ」またもや痛い言葉を大日方さんから投げかけられた。『完全なる飼育 赤い殺意』撮影期間の半ば、夕食の後のことだった。助監督の白石さんと大日方さんの間でも、僕の挙動不審な振る舞いは気になっていたのだろう。何気ない一言は、僕の急所をついていた。この苦しい現場のなか、僕なりに適応しようと監督に必死に食らいついていく中で、いつしか撮影を通じた映画そのものへの不断の批評意識を失っていたのかもしれなかった。『17歳の風景』の時は確かにもっと自由だった気がした。しかし、監督のビジョンへの没入こそが、撮影の核であることもまた、事実だった。安易には答えの出ない事柄でもある。大事なことは、僕自身がその没入に本当の意味で没入できているのか、ということなのかも知れなかった。
 また、照明もどう扱ってよいのか分からない事柄の一つだった。ドキュメンタリーを撮っている時には、僕は照明を全て自分でコントロールしていた。『17歳の風景』でも年若い大久保に半ば強引に照明を頼んだだけだ。ベテランの照明技師が付いた今回の映画で、僕は初めて「撮影部は照明に口を出さない」という映画界の古いしきたりを知ったのだ。昼夜問わず煌々と照らされた室内で、夜と昼の違いを明るさではなく色温度の変化で表現していく照明技術には感心もしたけれど、ぼくにとってはやっぱり作りものの違和感のほうが強かった。照明に関しても、僕は完全に打ちのめされてしまった。フィクションの物語を映画で描く、つまり「映画の嘘をつく」ということをどう捉えるのか、答えの全く出ないまま、現場は終わった。クランクアップの時、若松孝二とはこれで終わりだ、と本当に思った。それでもよかった。『17歳の風景』という、とてつもない奇妙な夢を一緒に見られただけで、大げさに言えば人生における、一生語り続けることのできるひとつの大きな体験であった、と断言できたから。そして僕が劇映画のことを絶望的に知らず、身の丈にあわないことをしでかしてしまった、という恥ずかしさが大きかった。他のスタッフ、白石さんや大日方さんらが僕のことをどう思っていたのか、想像するのも恐ろしかった。

そんな、なにも上手くいかずに俯く日々の中、台本に文句を言いつづけている監督の姿だけは印象的だった。台本に文句を言うのは『17歳の風景』の準備の時にも見ていたから驚きはなかったけれど、その出来事は撮影中に起こった。
この映画は、シナリオ上では少女を監禁していた男を、助けにきた男が包丁で刺し殺す、というストーリーだった。その上で、監禁されていた少女が、自分を助けにきた男になぜか手錠をかけ、逆に監禁してしまう、という筋立てになっていた。つまり、監禁していた男と少女との間になにか心の交流があり、それを壊した男(助けに来た男)に罰を与えるといったような形になっていた。これが監督には許せないようだった。そして驚くほど大胆な改変をした。なんと、殺す側を逆にしたのだ。つまり、助けに来た男を、少女を監禁していた男が非情にも刺し殺し、その極限状況のなかで少女は自分を監禁してきた男に手錠をかけ、逆に捕まえることに成功するのだ。つまり、少女が自分を苦しめつづけ、さらには自分を助けにきてくれた男を殺した憎むべき相手についに復讐を果たす、という、逆のストーリーに改変したのだ。自主制作や自身の脚本ならいざ知らず、プログラムピクチャーという商品を作る過程で、与えられた脚本のラストシーンをここまで変えてしまうことが普通にあることなのかどうか僕にはよくわからない。しかし監督は、監禁の中で支配と被支配の間に愛が生まれる、などという支配者にとって都合の良い物語(それがこのシリーズのコンセプトでもある)を、支配者を斃して被支配者が自由を手にするという解放の物語に変えてしまったのだった。

さんざんな撮影が終わった直後、僕はイタリアに飛んだ。といっても旅行ではない。『世界の車窓から』というテレビの紀行番組の撮影だった。が、気分は完全に逃避行だった。僕は敗北の傷を癒すように、自分のホームグラウンドであるテレビドキュメンタリーの撮影に没頭した。2004年の4月、若松孝二との日々はここで一旦、終止符を打った。一度はすごく近くなり、そしてまた遠く霞んでしまったようだった。その気持ちは当時誰にも言わなかったが、たとえ言っても誰にも理解されなかったろう。
 
改めて思う。『完全なる飼育 赤い殺意』は、映画そのものの出来は別として、撮影は完全に失敗だった。僕自身の撮影に対する考えの甘さ、脚本への理解不足、ベテラン照明技師に委ねてしまった照明と撮影のちぐはぐさ・・・何もかもが上手くいっていないと思うけれど、ただ、学ぶ事の一番多い現場だったことは確かだ。
 そして僕はこの映画の撮影をして、決定的な出会いもした。俳優という人種との、初めての邂逅ともいうべきものだった。この映画ではじめて、僕は俳優の芝居というものを目の当たりにした。もちろん最初からうまく行ったわけではない。むしろ、失敗からの出会いともいうべきものだった。俳優について何も知らない僕は、ドキュメンタリーの時と同じように、カット割りを超えてつい俳優の動きを追いかけてしまう。俳優は、カメラがどこにあるか常に計算した上でカメラ位置を演技の中心点として芝居しているので、僕が勝手な動きをしてしまうと、俳優の動きとカメラの動きがぶつかって「画面の軸」のようなものを作ることができないのだ。本来ならコミュニケーションをとって軸を作るべきものを、俳優への接し方も知らない僕は、この映画では芝居のポイントもわからず自分勝手に動く、素人になってしまっていたのだった。
 とはいえ初めて間近に見るプロの俳優の持つ「力」には瞠目した。大沢樹生のしなやかな身のこなしには問答無用でドキッとさせられたし、佐野史郎の変幻自在の表現には驚嘆させられた。プログラムピクチャーとはいえ、俳優たちの演技への没入は半端ではなかった。テレビの再現ドラマは何本かこなしてはいたが、それらはすべて、本物の演技とは無縁の、ただのおままごとだと強烈に痛感させられた。この、俳優にたいする驚きが、僕にとってはこの苦い映画経験においての最も大きな収穫だともいえるかもしれない。それは僕に、新しい撮影の可能性の目を開かせてくれたのだ。(もしかしたら監督は、僕にこの発見をさせるためにあえてこの現場に僕を投げ込んだのだろうか?)
 俳優とカメラの関係について僕の発見をもう少し丁寧にいうとこうなる。通常、ドキュメンタリーでは出演者はカメラに対して自分の所作を見せようという意識がない。カメラは相手に食い下がり、あらゆる角度から映像的に追いつめて行かなければならない。これに対して、プロの俳優はカメラの視線に対して振る舞うことで表現を成立させて行く。このため、カメラはじっと待っていてもこちらの方にその本質が開かれるように演技をするのだ。この事が分かっていなかったので、こちらが俳優を追い、俳優もこちらを探すといういたちごっこになってしまい、お互いの表現、見せたい部分のごっつんこが起こってしまっていたのだ。僕もはじめは何が起こっているのかわからなかったが、やがてそれが分った。ドキュメンタリーは運動体の中心軸が相手の身体に有り、劇映画ではまさにカメラの存在に中心軸があるのだ。カメラが動くか、出演者を動かすかのちがい。この間にカメラに寄る映像表現にまつわる秘密が潜んでいる事を知った事が、この後の撮影に大きな示を与えてくれた。

 半年後、2004年9月。『完全なる飼育 赤い殺意』の試写があった。撮影こそ『17歳の風景』が先だったが、公開されるのこちらが先、つまりこれが僕にとって初めて公開される劇映画の撮影作品というわけだ。当日、試写会場である国映の小さな試写室に、緊張に震える僕がいた。「自分が思うほど映像は悪くないのではないか?」密かな甘い期待は映画が始まるとあっけなく消えさった。やはり、力のない映像の連なりだった。僕が撮影後、国外逃亡?していたので、色調整もベテラン照明技師の方にお任せしてしまい、それ以降、この映像を見るのが初めてだったのだ。色の調子はおかしく、雪の白さも部屋の寒さも、閉塞感も焦燥感も、暗さも眩しさも、なにもかもうまく表現できていない。改めて自信を失いながらも、僕は画面を食い入るように見つめ続けていた。撮影の不味さを超え、そこには確かに「映画」が息づいていた。虚構の世界の中をリアルに生きた人間が動きまわっていた。撮影はあんなに断片的だったのに、俳優たちは感情のつながり、変遷を見事に表現していた。監督の演出も、ダイナミックなうねりを作り出しており、あの下らない脚本が全く別物のドラマとして立ち上がっていた。何も表現出来ていないのは、なんのことはない、僕の撮影だけだった。初めて自分が撮影した「劇映画」の誕生に立ち会い、僕はたくさんの恥ずかしさと、深い感動を同時に感じていた。

 「あの映像では、監督はもう僕には声をかけないだろうな」『完全なる飼育』試写の後、正直なところそう思っていた。しかし、そんな僕を救ってくれたのは『17歳の風景』のラッシュ映像だった。
 試写会と前後して、『17歳の風景』の編集が小竹向原にある編集室で行われていた。「辻さん、17歳のほうは色の調整する時間あるかい」何気なく監督に問われた僕は、すぐに小竹向原に向かっていた。『17歳の風景』。この撮影の手応えだけが、大げさに言えばこの時の僕を支えるよすがだった。編集室に着き、編集マンと2人きりでモニターに向き合う。100分ほどにまとめられた『17歳の風景』のラッシュ。そこには確かに他の映画では観た事の無い映像が、僕にしか撮れないと言える、僕の願いがストレートに映し出された映像が浮かんでいた。泣きそうになった。これでいいんだ、自分のビジョンを自信をもって提示して行けばいいんだ。自分に繰り返し言い聞かせた。

 2004年11月。東京国際映画祭の大スクリーンで観た『17歳の風景』。そこにはたしかに、僕自身のビジョンがうつしだされていた。隣に座って観ていた監督が途中で僕に一言囁いた。「カメラ、なかなかいいじゃねえか」。最高の褒め言葉だった。監督にとってもスタッフの反対を押し切って「素人キャメラマンを使う」という賭けに勝った喜びがあったのかも知れない。ドラマ性を完全に排除した実験的で挑発的なこの映画は冗長で、サスペンスは不在で、ストーリーはバランスを欠き、観る人に忍耐を強いるものだったもしれない。しかし僕は本当に感動した。そして、この唯一無二の映画のカメラを一任してくれた監督の懐の深さにやられた。この映画を通して、僕は若松孝二の単なる1ファンから、不安の時期を乗り越え、ゲリラ的に映画づくりを共闘する当事者として、若松孝二のビジョンを具現化する1コマンドとなったのだ。

 すっかり自信を回復した僕は、若松プロの雰囲気にも馴染み、ちょくちょく遊びに行くようになっていた。そんなある日。「辻さんよ、雪いっぱい降ってるから俺の別荘に遊びに行こうよ」ふと誘われ、監督の別荘にいくことになった。そのとき「カメラも持ってきてくれよ、ちょっとテスト撮影したいんだ」と何気なく言われた。「!」僕の中で予感が走った。
 監督からいつか連合赤軍の映画を撮りたい、という話は繰り返し聞いていた。「若松孝二に連合赤軍を取らせる会」なるものを立ち上げ資金集めを始めたが難航している、という実情も知っていた。いつか、動くんだろうな、というのんびりした気分を僕は持っていた。とんでもなかった。監督は本気だった。本気の動き出しがそんなに早いとは正直思ってもみなかった。なんの体勢も整っていない中、そんなことはお構い無しとばかりに大きな渦が巻き出したのを直感した。
僕は自分の私物カメラではなく、JVCと掛け合って、新しく発売されたばかりのカメラ、GY-HD100のデモ機を借り出した。もちろん本番に備えた構えを作るためだ。「本気でやること」僕が監督との2本の映画で学んだことだ。映画『実録・連合赤軍』へと向かう、新たなゲリラ戦が始まったのだ。
2006年1月、宮城県鬼首の冬。降り積もった雪を踏みしめ、僕たちは雪原の中に立っていた。新たな闘いの静かな始まりだった。

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