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むらさき荘の住人たち
むらさき荘とはアパートでは無く、私が勝手に名付けた幼少期のわが家の貸間の事を総称した居住区の事である。
私が気づいた時には既に、赤の他人がわが家の襖一枚隔てた向こうに住んでいた。
マジで隣りの家の中が襖を開けるといきなり出現するのだ 🤔
それは何故かと言うと、私が生まれた後、母は手職である洋裁の稼ぎを元手にして土地を借り、二軒長屋の家を建て、半分を貸家にしていたのである。
その三年後には別の場所に土地を買い、もう一棟同じく二軒長屋を建て、そこに二つの家族が入居をしていた。
大家を副業として始めた頃、父とは別居をしていた。 男手が無いので用心の為、下宿のように襖で出入り可能にしたと言うのだが、その意味が今でもわからない…
お金にお金を生ませる方策を続けて行き、私が中学に入る頃には手職を捨て、今で言うところの『FIRE』を小さめに達成していたのであった。
それなのに暮らし向きは裕福とは言えず、夕食の献立は白菜の雑炊が多かった。 たまにサバ缶かカレイの干物が付く。
まぁ 食事の支度が面倒臭かったのだろう。。
家賃収入から金(ゴールド)の投資にも手を出し、失敗したりもしていたので、本当の懐事情はどうだったのかは謎だった。
最初に記憶のある住人は、おぼろげだが若い夫婦と小さな子供だった。
その家族が去り、次に入居して来たのは五十代後半の女性で一人暮らしだった。
この方は長く入居していて、次に引っ越しをしてリフォームした家にも貸間を作り住まわせていた。
『 瀬川(せがわ)のおばさん』
私たち家族は彼女をそう呼んでいた。
瀬川のおばさんは隣にある小さな漁村に住んでいて、夫と一人娘を病気で亡くし、複数の猫達と共に暮らしていた。
働く場所を求めて、生活のために猫達を村の人々に託し、わが町に越して来たのだ。
瀬川のおばさんの部屋は、六畳一間に押入れが一畳、半畳の台所に玄関
がある。
水道は通っていないので、仕事から帰ると襖を開けて、わが家に水を汲みに大きなバケツを持ってやって来る。 お風呂もわが家に入りに来ていた。
それ以外はお喋りをしに行き来するでも無く、生活は区切られていた。
しかし私だけは、たまに歌番組を観にお邪魔していた。 家族のチャンネル争いに負けた時にだけ 😓
瀬川のおばさんは穏やかな人で、いつも柔和な笑顔で私を受け入れてくれた。
おばさんの部屋には小さな金箔の仏壇があり、そこに旦那さんと高校生くらいに見える娘さんの遺影が置かれていた。
大きな振り子時計があり、ボーンボーンと時間毎に鳴り響いていた。 たまに時が止まると、おばさんは時計の扉を開けて、鍵のようなネジを穴に入れ、巻いていた。
昭和初期のラジオ、折り畳みのちゃぶ台、小さなウサギアンテナの白黒テレビ、飼い猫達が引っ掻いたボロボロの屏風。
レトロな空間が、同じ屋根の下とは
思えないほどに広がっていたのだ。
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