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チキンを盛大にぶちまけて悲しい

私が目にした悲劇なのか、白昼夢の一種なのか、区別がつかない記憶がある。おそらく実際には起こっていないのだが、確かに脳内に残っていていつでも再生可能な映像が頭の中にある。幼い弟が勢いよく転んで、フライドチキンを地面にこぼしてしまい泣いている映像である。それを見るだけで心が痛み、涙が流れてくる。

出典:筆者の記憶

 ついこの間まで、スーパーに行くと、やれハロウィンコーナーお菓子特集だ、やれトリックオアトリートだと騒がしかったのが、11月に入ると商業施設の館内放送は「メリークリスマス!ケーキのご予約は…」である。節操がない。そしてスーパーのお惣菜コーナーは「クリスマスと言えばフライドチキン!」とクリスマスムードを演出してくる。いつもフライドチキンは売っているくせに、クリスマスシーズンになると特別感を持たせてくる。しかし、こんなひねくれ者の私も、フライドチキンは好きである。ひとつ購入し、夜の食卓に並べた。

 そして、このフライドチキンを食べようとした瞬間である。私の頬に涙が伝った。フライドチキンを食べようとすると、いつもこうである。一番ダメなのは、ケンタッキーフライドチキンである。私の脳に強烈に刻まれた「弟がケンタッキーのハッピーなパックを地面にぶちまけてしまい泣いている映像」が流れてくるのである。 ※コンビニのレジ横に売っているチキンはなぜかこの映像のトリガーにはなっておらず平気である。

 小学校2年生くらいの頃の話だ。私は白いエスティマの助手席後ろ側に座っていた。ショッピングモールの駐車場で、私は家族がお昼ご飯を買ってくるのを待っていた。父が弟と一緒に、ケンタッキーフライドチキンを買ってくるということだ。私は心躍らせながらそれを待っていた。

 窓から、車に向かって走ってくる弟の姿が見えた。車内の私にフライドチキンが入った箱を見せつけている。嬉しそうな表情だ。後ろには歩く父の姿がある。平和な光景だ。

 「あっ」

 ドサッ。弟は勢い余って転んでしまう。チキンが無残にもこぼれ散る。弟はアスファルトに座り号泣していた。
 薄暗いエスティマの車内で、私もひそかに泣いた。普段はゲームの取り合いで喧嘩になるし、私が彼と同じ年齢のときより両親から優遇もされていて憎らしい弟。なのに、チキンを嬉しそうに持ってきて走ってくる姿は、途方もなく愛らしい。彼が転んで地面にチキンをこぼしてしまうさまを見てしまうと、取り返しのつかない悲しみに襲われる。

 これ以降の記憶がない。この場面だけ、鮮明に記憶に残っている。そして厄介なことに、私が実際に見た光景なのか覚えていない。はたまた、当時の私が「もし弟が転んでチキンをこぼしてしまったらどうしよう。悲しくてやりきれなくなる」と無意識に想像してしまったことなのかもしれない。とにかく確信がない。

 弟も可哀そうだし、チキンも可哀そう。本当にこぼしていたとしても、きっと親は「泣くなよ、また買えばいいんだから」と言ってくれるだろうけど、そういう問題でもない。可哀そうが渋滞して、私は涙を流してしまう。もし私が役者で、泣く演技をしなければならなくなったら、この場面を想像して涙を流すと思う。

 この話を人にしてみると、変なヤツだと思われることが多い。「なんかよくわかんないけど、深いね~!」とコメントが返ってくる。深みを感じていないコメントである。この「記憶なのか妄想なのか分からないが、なぜか過去に作られた頭の中の映像で涙を流してしまう現象」を検索しようとしたが、どうやら私の検索の仕方が悪いのかHSPだの感受性だのが出てくる。誰か知っていたら教えてください。

 この映像を頭の中から削除したいのだが、あまりうまくいかない。とあるシリーズの食蜂操祈さんとか、BLEACHの月島秀九郎さんあたりにお願いして消してもらいたい。七つの大罪のゴウセルさんの「ナイトメア・テラー」をされたら、このチキンをこぼす悲劇の無限ループに閉じ込められて精神を破壊されてしまうだろう。助けてほしい。

noteを読んでいただきありがとうございます。よろしければ、暇なときなどにまた見に来てください。もし何か、考えたことなどがあれば、感想をお聞かせください。そこから少し、楽しいコミュニケーションが生まれたらうれしいです!