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読書録:犬養道子『やさしい旧約聖書物語』『やさしい新約聖書物語』

 私にとって、いちばん近しい宗教は、キリスト教です。
 ひとつは、単純に、通っていた幼稚園と高校・大学がプロテスタントだったから。
 もうひとつは、英米文学を読むと、多かれ少なかれ触れることになるから。
 いちばん聖書を読んだのは、週2回の礼拝があった高校時代でした。とはいえ、記憶にあるのはほぼ新約聖書。それも、通読・精読したわけではないので、イエスのたとえ話などはそれなりに知っていますが(「目の中の丸太」はよく使った。。。)、「キリスト教徒は何か?」はよく判らないまま、いまに至ります。


 先日、犬養道子さんの『やさしい旧約聖書物語』と『やさしい新約聖書物語』を読んで、ようやく「物語としての聖書」を把握しました。

犬養道子『やさしい旧約聖書物語』『やさしい新約聖書物語』(河出書房新社)
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309291277/
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309291284/

▼ 犬養道子『やさしい旧約聖書物語』『やさしい新約聖書物語』(河出書房新社)

『やさしい旧約聖書物語』概要:天地創造やエデンの園、ノアの方舟などを含まず、アブラハムの移住からを、大きな流れをもつ物語として構成。

 旧約聖書を物語として読んだ場合、移住や民族闘争を背景としながら、「これと見込んだ人の子(当然のごとく男性)に、神が直接語りかけ、力を貸す」ことと「神と直接つながりながらも、多くの人の子は道を誤る」ことがくり返されています。
 人の子には寿命があるので、1000年という長きにわたると、旧約聖書の中で神に直接語りかけられる人数もそれなりに居ます。そのことも相まって、「神は常に人の子を選ぶけれど、代わりはいくらでも居るし、失望されれば見放される」という印象が強く残りました。なかでも、神に大抜擢されてイスラエルの民を率いる者になった、あの有名なモーゼがいちばん可哀想でした。エジプト王相手に不得手な交渉を何度もさせられたり(アアロンという補佐は居たものの)、出エジプトやパレスチナ道中では同胞たちから「きつい」「なんで連れ出した」と責められたり。中間管理職ですね、これは。挙句、ほんの少し神への疑いをもっただけで、最後の最後で神に見放されてしまう。報われないにも程があります。

『やさしい新約聖書物語』概要:オーソドックスに、救い主イエスが人の子として誕生し、処刑され、復活したのち天に登るまでを物語として構成。

 新約聖書を物語として読んだ場合(というか、救い主イエスが主軸なので、自然とそう読めるのですが)、「神の言葉を伝える役割がイエス(書籍ではイエズス)のみに託されているので、神そのものは語らない」うえ、「奇跡の行使がイエスを介して行われるので、イエスそのものが信仰あるいは排除の対象になる」ことが、旧約との大きな違いだと言えます。
 兎にも角にも、イエスは奇跡を起こします。旧約では「神から多数の人の子へ起こされるもの」だったのが、新約では「人の子の肉体を持つイエスが、同じく人の子に起こすもの」になっているので、どうしても奇跡の意味合いが違って見えてしまう。食べものをもたらす・増やすのは旧約でもありましたが、「生みの母マリアに乞われて、祝宴のために水を葡萄酒に変える」のはいいのか。らい病など当時から差別をも引き起こす病気を癒すのは判る気もしますが、死者を甦らせることは、救い主とてしてしまっていいのか。ほとんどの奇跡が対個人ということもあり、なんというか、「信仰心には成果が伴う」と読めてしまうのが複雑でした。


 物語として通読してみても、聖書の真意はちっとも掴めた気がしません。
 そこで、ずいぶん前に買って眠らせていた解説本と、新たに購入した解説本も読みました。

『聖書の世界』(新人物往来社「ビジュアル選書」)
https://shop-kyobunkwan.com/4404039271.html (版元なくなってたんですね。。。)

 そもそも「キリスト教はユダヤ教から分かれてできた」もので、旧約と呼ばれる部分までを聖書とするのがユダヤ教、旧約に新約を加えて聖書とするのがキリスト教。新約聖書ありきの教義しか知らない身としては、「ユダヤ教(旧約)に満足できない人々が生み出したのが、目に見える奇跡で民を救ってくれる救い主イエス」という印象を受けました。
 とは言え、救い主イエスは処刑されて復活するも、その後すぐ地上を離れてしまうんですよね。そうなると、もう直接の奇跡を望むことはできないわけで、一般の民からすれば〈地上の死〉と同じことではないのかなと思います。

山本 芳久『キリスト教の核心をよむ』(NHK出版「学びのきほん」)
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000064072762021.html

 旧約聖書で語られるのは「人間を探し求める神」だという解釈があるとあって、これには深く納得しました。少なくとも旧約の世界では、常に神が働きかけていて、だからこそ前述のモーゼのように「言われるならやりますけどね!?」で動く者も多い。そこが選民思想の表れでもあるのかも知れませんが。
 新約聖書の中心であるイエスは、救い主(救世主、メシア)ですが、それは英雄ではなく「苦しみを受ける存在」であるということも、あらためて理解しました。やっぱり奇跡というものは華々しくて、ともすれば万能の英雄に見えてしまうのですが、救い主イエスの本質はそこになく、「人間の原罪を背負って、処刑という苦難を引き受けてくれる存在」なのだと。では、引き受けてくれた救い主イエスが地上を離れてしまったら、誰がその苦難を引き受けるのか。それは今や、われわれ一般の民自身になった、という戒めであるのかも知れないと、ようやく思います。


 あらためて聖書の世界に触れてみたものの、「無知の知」を感じるばかりで、ひとまずは「私なりの解釈」をするほかないのだろうなぁと思います。宗教画があれだけの数描かれているのも、教会の力が強かっただとか、富める者が信仰心を見せるためと同時に、画家たちも聖書の世界を思い思いに解釈して描きたかったからじゃないのかな、などと勝手に思っています。後世の作品然り。
「三大一神教」(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の名の通り、一神教は大きく分けて3つしかないとされながら、あまりに広範囲で信仰されていることは、ものすごいことだと感じます。というか、実質ひとつしかないわけで。

 聖書からの教えを、都合よく受け取るならば、神の御許において平等な存在である人の子なのだから「あなたの隣人を愛せ」、そして、常に神がご覧になっているのだから「善きおこないをせよ」が、現代には必要なのだと思います。その「隣人」とは誰か(あるいは、私は誰にとっての「隣人」であるのか)、「善きおこない」とは何か。それは自分で考えなくてはいけない。なぜなら、導いてくれる救い主イエスは、もう地上には居ないのだから。

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