賢治とDiggyのファンが考える『銀河鉄道の夜』とDiggy-MO'の歌詞世界

たぶんほとんど需要なさそうだけど(笑)まぁメモ的な感じでね。

Diggyは以前ファンの質問にこんな風に答えております。

Q7
昨年の夏に天体観測をされたという話も伺いましたが、例えば星というワードや今回の「PTOLEMY」において窺い知れるような、天文学に関する知識やリリシズムには、何か影響を受けたルーツがあったりするのですか?幼少期に本を読まれた、体験された等。

ペンネーム/No.50

A7
小学生のときちょうどハレー彗星タイミングだったもんでして、すごい興味が湧いたのでおそらくその辺りもルーツになるかと。
「コペルニクの銀貨」という当時の児童向けの読みものがあって、大好きでした。そして、宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」とか。
かなり複合的なイマジネーションだと思います。

https://www.diskgarage.com/digaonline/pleasure/30086

『コペルニクの銀貨』は知らなかったけど私もハレー彗星は小学生の時に見た記憶…。
で、ウチら世代の『銀河鉄道の夜』と言えばますむらひろしのアニメ版なのではないかな?

私もこのビデオは擦りきれるほど観たよね…ほんと良い作品なので機会があったらぜひ観てほしい…。
細野晴臣のサントラは各種サブスクで配信中なので聴いてみて…というか聴いてください!(笑)最高なので!

とにかく『銀河鉄道の夜』読んでみたいな、という方は青空文庫で読めるよ!

で、ちゃんと本で読みたいなーって人にはちくま文庫版がおすすめ。

なんでこれがおすすめかっていうと、『銀河鉄道の夜』って未完の小説なんだけど(賢治が亡くなる直前まで推敲してる形跡がある)、最終稿はもちろん第一稿から第三稿まで全部読めちゃう!これ1冊で読み比べができるのはこれだけじゃないかな?


『銀河鉄道の夜』をざっくりと説明すると『ジョバンニという主人公が友達のカムパネルラと天の川を走る鉄道に乗って旅をする話』。
ジョバンニという名前だとかカラスウリとかで舞台は夏のイタリアじゃないか?と想像できるんだけど、専門家が読めば星空の描写でもそれが分かるらしい。私には全く分からないけど(笑)それくらい賢治の天体の知識が半端ないってことだよね。
で、この旅の最終目的は『ほんとうのさいわい』を見つけることなんだけど、この『ほんとうのさいわい』って色々解釈はあるけど私は『悟り』とか『救い』のことなんじゃない?と思ってる。
タイタニック号沈没事故の犠牲者たちが南十字星で列車を降りる描写は明らかにキリスト教の『heaven』を意識してるでしょ?キリスト教での『救い』って『死後に神のみもと(heaven)に行き永遠の命を得る』ことなんだと思うけど、カムパネルラは南十字星では降りないんだよね。で、そのあとに草原にお母さんの姿を見つけた!と言ったあとジョバンニの前から突然姿を消しちゃう…。ここの描写はキリスト教的ではないよなぁ…と。宮沢賢治って熱心な仏教徒(どこの宗派とかはあえて書かない…色々アレだから…苦笑)なのでやっぱ仏教的な描写なんじゃないかと。
仏教では『六道輪廻』って言って地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界に転生し続けるって考えがあって、例えば天界に生まれても死んで別の世界に生まれ変わったりする。ちなみに天界で死ぬ時は10年苦しむらしいよ。嫌すぎる(笑)ある意味永遠の命を生きてる訳だけど、これが『ほんとうのさいわい』とは思えないよね?じゃあ仏教での『ほんとうのさいわい』ってなんだろう?てなると『六道輪廻』から外れること。これを『解脱』っていうんだけどね、生まれ変わることもなく何者でもなくなるってさぁ、これ『無』ってことなんじゃないかな?と。だからカムパネルラは姿を消しちゃった(解脱した)ってことなんじゃないかと…。
まぁカムパネルラが仏教徒とは考えにくいけど賢治の死生観を反映させたキャラには違いないよね。
銀河鉄道は『ほんとうのさいわい』を見つける為の道程を描いてるけど、キリスト教徒も仏教徒(ぽい思考の人)も一緒に乗ってるのが面白いよね。どんな結論に至るとしても『ほんとうのさいわい』へのアクセス方法ってみんな割とおんなじなのかも。


『銀河鉄道の夜』もそうだけど賢治の作品て西洋というかキリスト教の影響めちゃめちゃ受けてるし世界観とか西洋そのものみたいなものも多いけどさ、その根底にはやっぱり仏教思想が流れてるよなって感じるんだよね。まぁこれは賢治が仏教徒だということを私が知っていたせいもあるかもしんないけど。そんで私はDiggyにもそういう面を感じたりしてるんだよねぇ。
『PTOLEMY』なんて思いっきり西洋を題材にしてるけどその内容には「無常観」を感じるし、てかDiggyの生き方そのものが「無常観」なのかも…とかね。あ、「無常観」てのは『「全てのものは絶えず変わり続ける」ということを受け入れていく』という仏教の考え方なんだけど、変化していくことを恐れず受け入れて(でも時には抗って)いくうちにどんどんと表現の幅は広がって、そうして今『Ave Mujica』の楽曲を手がけてることとか、運命を「俄然受け入れていきます。」ていう姿勢も無常観を感じてしまうのよな。そういえば『BLUES』でも「人は変わるから…そうだろ?」て言ってたよな…これはちょっと違うか(笑)


賢治もDiggyも学術的知識を取り入れながら人間の根源的な問いを作品を通して考え続けてるところが2人に共通するところかな。ただDiggyのほうが少しだけ社会に溶け込む能力が高いのかな?とは思うけど(笑)
Diggyが賢治の影響受けまくってる!とかそういう感じではないと思うけど賢治の遺伝子はDiggyの中にも流れてると言ってもいいんじゃないかな?て思うんだけど、どっちのファンでもある私の願望が混ざってることは否めないな(笑)

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