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お盆・お墓参り・法事…日本古来からのグリーフケアの知恵の一端と思いますが…


お盆やお墓参り、どうしましょう?という悩み

身近に故人や亡くなったペットが居る方にとって毎年触れるであろうことが、命日・お盆やお彼岸・中にはお墓参りも有るかもしれません。
一つ前の記事では命日の過ごし方について書きましたが…。

『命日にどんな過ごし方をするのかは故人との関係性によっても本当に人それぞれ』『確かにお墓参りや祭壇に手を合わせて祈ることは大切ですが、大事なのは場所ではなく心を向けるということ』といったあたりを書きました。
そこに関連してのお話で『お盆やお墓参り、どうしましょう?』ってことについて故人交信(ミディアムシップ)を行う私なりの考えを書いてみます。
というのも、「感染症予防に伴う緊急事態宣言などで不要不急の外出自粛を…」と言われても、故人との関係性や想いの度合い次第で人によっては『不要不急とは思えない』という人も居ると思うのです。
反対に、親・親戚関係が良くなかった方とか、そこまで密な関係性では無かった場合とかもあるでしょうし、精神的に辛くて行かれないという場合もあります。

グリーフケア(死別悲嘆のケア)ってなんだろう?

死別による悲嘆状態(グリーフ)は、普通の悲しみ方とは違います。
死別経験者なら「それで結構辛いのよ~」と解ると思いますが、
『心(精神)的な反応・身体的な反応・日常生活や行動の変化』が混在した状態で、日々の生活を送るのが大変になってしまったり、時場所問わず、故人に関連するきっかけがあれば起こりうるというものです。

亡くなった方を思い出し悲しみに暮れて家のことや仕事に手がつかなかったり、鬱的症状が出て食事や睡眠がうまく取れなかったり、疎外感を感じて外に出るのがおっくうになったり…他にも人によって様々な反応が出ますが、「今までとは違う」ことでいろいろ思い悩むことは共通していると思います。
死は生きとし生けるもの平等に訪れるものですから、故人や亡くなったペットの周囲の人は関係性次第では悲嘆状態になることもあります。

その状態に対して、心の整理をしていったり、周囲のサポートを経て生活を立て直していったりと、深い悲しみから立ち直ることができるようにサポートする・ケアをするという事が「グリーフケア(死別悲嘆のケア)」です。
グリーフケアには、これといったやり方が決まっているわけではなく、死別悲嘆によって不安定になってしまった心を癒やすことに繋がれば、それはグリーフケアと言えます。

1960年代にアメリカで始まり、その後ヨーロッパに広がっていったもので、日本では1970年代から研究が始まり、最近では所謂「終活」と共に徐々に広まってきたかなという感じです。
(因みに、私Tomoちゃんは1級グリーフケアアドバイザーの有資格者です)

お盆・お墓参り・法事
=日本古来からのグリーフケアの知恵だと思う

これは私の個人的な見解ですが、お盆やお彼岸・お墓参り・法事というのは日本古来からのグリーフケアの知恵の一端じゃないかなと思うのです。
以前の記事にも書きましたが、故人側は、(自死を除いては)こちらの世界での学びを卒業したことをきちんと納得した上で光の世界に移っています。

故人のいる世界では「(生前の)埋め合わせの法則」「思ったことが即実現化する」「分裂して複数の場所に同時に行ける」というめちゃめちゃ自由な状態の中で、私たち人間をサポートする側にまわっている、足りないとか後悔とか恨みとかは無く「愛」そのものです。
それを踏まえてお盆やお彼岸・お墓参り・法事を誰の為に何故やるのか?と考えると、故人のためだけではなく、遺された家族や親族、友人のためにやることではないのかなと思うのです。

よくよく思い出すと、そういう時って親戚や所縁のある人達などが集まって宴会とかしてません?
(地域によっても違いは有るかもしれませんが)
そこで故人のことを語らったり、近況をお話しして、故人との絆を再認識して、お酒も入って楽しい気持ちになるという感じだと思うんです。
その中でいろいろな想いや悲しみなどを共有して心の安定に繋がっていくのではないかと思います。

ともすると、節目にみんなで集まってグリーフケア的なことをやる
=お盆やお彼岸・お墓参り・法事のような気がするんです。

そうは言っても、様々な事情で出来ない・行けないはある。

親・親戚関係が円満だったら、お盆やお彼岸、お墓参りに集まるという事は問題なく出来るのかもしれません。
でも、みんなが皆、親・親戚関係が円満というわけではありません。
(私は毒親・毒親戚持ちで、普段が超温厚な夫ですら激怒したレベルの無礼な事をやってきたので、以来一度も関わっていません)
また、悲嘆状態がしんどすぎて精神的に辛くて行かれないという場合もあれば、今は感染症に伴う様々な状況や心配事も相まって、『様々な事由でお盆やお彼岸、お墓参りに集まることが出来ない・行けない』があります。

そこで頭をもたげるのが「お盆だから○○しなければ」「顔を見せないと悪い気がする」「新盆(初盆)や命日だから絶対に…」というような「ねばならない・であるべきだ」という考え。

それに対して故人交信やグリーフケアを行う私から言えることは「それをすることで心がホッとしますか?元気な気持ちになれますか?それを判断基準にしてください」という事です。

リモートでも、実際に出来なくても構わない、
大事なのは自身の心の在り方。

お盆やお彼岸・お墓参り・法事などを日本古来からのグリーフケアの知恵だと捉えてみた時、それは心のケアの目的で有るべきとおもいます。
しかし、様々な事情が相まって、「ねばならない・であるべきだ」という考えが、どうあっても重荷になってしまって自身の心のケアに繋がらない、心がホッとしたり朗らかな気持ちになれないと思うなら、それは違うんじゃないかなと私は思います。

感染症に伴う様々な状況や心配事も、古神道で言う所の穢れ(=気がかり・気枯れ。いらない不安や、細かいことを気にしすぎている状態)に繋がって、「安心して故人に心や想いを素直に向けられる」というのとは程遠くなってしまう位なら、無理して帰省等をせずにリモートでお墓や祭壇に手を合わせたり、ご親族とお話ししたり…でも良いと思うのです。
Zoomとかの映像が難しいなら、電話でだって構いません。遠隔であっても、故人のことを語らったり、近況をお話しして、故人との絆を再認識して心がホッとするなら、ちゃんとやったことになります。

なぜなら、亡くなった存在達の望みは「本当の意味で心から笑顔になってくれること」ですから、そこに繋がるグリーフケアの役割になることであれば場所や方法は問わないのです。
(勿論常識の範囲でですよ)
それに、故人はお墓や祭壇に居るわけではなく、それらはあくまで故人を思い出したり、そのために心を整えたりするためのシンボル的要素です。
故人側からすれば、先述の通り「思ったことが即実現化する」「分裂して複数の場所に同時に行ける」というめちゃめちゃ自由な状態に有るので、「思った瞬間に故人が傍にいてくれている」という事や「心から笑顔で日々を過ごしてほしいという想い」は時間も場所も問わないのです。

悲嘆状態がしんどすぎて精神的に辛くて行かれない・出来ないという場合も、親・親戚関係が良くないとかの場合も、何のために行くのか・行うのかをご自身なりに考えてみて、それが亡くなった存在達の望みである「本当の意味で心から笑顔になってくれること」に繋がるかどうかで決めたら良いと思います。

いずれにしても、安心して行けるような状態になって、心から行きたいなと思ったら行ったらよいですし、やりたいなと思ったら実行したらよいと思います。 

亡くなった方や亡くなったペットとお話ししたいと思ったらお話ししたら良いんです。↓↓ちなみに、遠隔でも対面でも精度は変わりませんよ。

自分で出来るようになる事を目指したい方はこちら。
段階的にマンツーマンでお教えします。

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