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優しさ随想

優しさという言葉は意味を多く背負いすぎていて、言葉として機能不全に陥っているように思う。

そこで、なんとなく今思う事をだらだらと書く方が、かえって「書きがいがある」ものが書けそうな気がする。

優しい人間に成るためには、大変激烈な修行を必要とすると思われる。
しかし、その修行をしていないのに、優しい、という人も稀に、稀に、いる。

しかしいずれの場合も、優しい人間である事を維持する事もまた、困難な道のりである。

であるから、世の中に優しい人がいない事は驚くべきことではない。表面だけ優しい人ばかり、と言って文句を言うのも、見当違いである。

で、私は別に上のような話がしたかったのではない。

バスに老人が杖をついて乗ってくる。
若者や会社員が席を全占有している。
老人がバスの中に立っていて、やっと目的地に着いて、降りる。
その話を近所の花屋の店員に話すと、「譲り合いの精神がないですね。今の人たちって」とか言う。
老人も、世間にもう少しの優しさがあれば、とか言って、家路につく。


と、こういうやや図式的な話が、今の世の中にも実際ある。

あえて譲らない優しさ、つまり「あなた若見えしてますよ。だから譲らないよ」という優しさの話も巷でよく目にする。

が、私はそういう話にも興味がない。

私が言いたい事は以下の一事のみである。

バスであれ、電車であれ、
運行の安全を妨げる事象があれば、
乗客は自らできうる限りで、
その事象を解消すべく対処する義務および権利を有する。
なぜならば、運行の安全が毀損され、
運行不能等の事態に陥れば、
損害を被るのは乗客自身であるからである。


多くの場合、問題の実態は、優しさうんぬんとは無関係である。私はそう思う。


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