見出し画像

「非効率」は経済合理性を捨てなければいけないのか

ラオスの織り物の特徴を伝える時、
私は“原始的で非効率な手しごと”を特徴の1つとして紹介をしている。

ラオスの村の織り物は、電力による動力を一切使用しない、手紡ぎや手織りの織り物が主流だ。村で綿花を育てて採取し、それを天日干しして、ほぐして糸車で手作業で糸にする。そして、世界の織り機の歴史の中でも、初期段階に出てくるような機織り機で、手動で緯糸を流して木の板を持って手で糸を布にしていく。まさに原始的という言葉が相応しい。
糸の染色も同様に原始的であり、染色に利用する植物を畑で育てたり、野山から採取して、自然染色で布の糸を染めることも村では一般的だ。


「非効率性」の本質的な意味での余白

ラオスの織り物の原始的な非効率性には、はたして意味があるのか?そんなことを常々考えている。

私は、IT技術が進歩した現代の世の中において、非効率性=マイナス要素だと、ずっと捉えてきた。効率を常に求めてきたし、今でも効率を求める意識は強い。
一方で、ラオスと関わる中で「非効率=心の余白」とも感じるようになり、そう考えると、織り物の非効率性には、本質的な心地良さのがあるのかもしれない。

では、非効率がもたらす、心の余白や心地良さとは何だろうか。

物質としての織り物を見るだけでは、本質的な心の余白や心地良さは見えてはこない。例えば、数値化や標準化されていない、“手紡ぎ糸の太さの不均一性”、”手織りの風合いの柔らかさ”、そして”自然染色のロットごとの違い"。これらは、コントロールできない(されない)ところに、余白を感じさせるものだが、その物質的特徴だけが、ラオスの織物から感じる心の余白や心地良さを構成する要素ではない、と思うのである。

ラオスの村の方々が持つ精神性、暮らしのあり方を見ると、その本質が見えてくるのではないかと思う。

ラオスでは、仕事よりも日々の暮らしに、とても時間をかけている。
例を挙げると、日々の食事。各家庭で一般的に食べられるカオニャオ(もち米)だが、毎朝のように、早朝から起きて時間をかけて火を起こして蒸す作業をしている。電化製品が一般に普及している日本で考えると、炊飯器があれば、もっとゆっくり起きて、もっと楽に効率的に調理ができそうだが、わざわざそんなことをやっている。どうやら、もち米専用の炊飯器は存在しているようだが、それを使っている人を殆ど見たことが無い。

つまり、日本人からすると、ラオスの暮らしには、無駄と思える時間が大量に溢れているのである。ラオスの方々は、無意識レベルでの無駄な時間を許容しているように見えるが(許容というよりも無駄な時間を持てる心の余裕なのかも知れない)この許容や余裕こそが、ラオスの村の方々が持つ、執着しない、焦らない、怒らない、という心の余白をつくり、穏やかで幸せな世界観を形成し、人は、その世界観に心地良さを感じるのかもしれない。

少し話はズレるが、多くの日本人は日々なにかに追われ、無駄を無くし、効率的に動かなければいけない=must の精神が強く染みついている。そんな日本人にとって、うらやましい世界観ではないだろうか。

手織り物の話に戻すと、
ラオスの村の方々の数値化や標準化されていない手織りの非効率性が、ラオスの村の心の余白や心地良さを、まるで鏡のように映し出しており、それが、ラオスだからこそできる穏やかで緩やかな布を生み出すのかもしれない。

織り物の非効率性の課題

一方で、資本主義社会の中で、非効率な手織り物は、そのままにしておくと、必ず淘汰される。非効率性=マイナス要素だと捉えているように、効率と経済性は切っても切れない関係性にあると、私は思っている。数値化や標準化は、それは効率性を上げることに寄与し、コストダウンや生産性向上、そしてその分、付加価値を高めることに繋がるし、繋げられる。結果、競争力が高まる。競争力が無ければ、なかなか現金収入につながらないので、資本主義社会の中では淘汰されてしまう。

ラオスは社会主義とは言っても、他国からの資本投入の受入や国際社会の一員である以上、資本主義社会の中にいると言える。そんな中で、手織り物業界が淘汰され、現金収入が得られない状況になれば、手織り物を諦める必要もあり、場合によっては、産業の無い地元の村から、出ていく必要がある。
実際、近年、コロナ後の現地通貨の大暴落と景気悪化によって収入を得る効率が悪すぎる手織り物は、その淘汰に拍車がかかっている。

それをラオスの方々が望むのであれば、それはそれでもよい。

しかし、ラオスの織り職人や縫製職人に日々関わる中で、こんなことを村の方々から聞いたことがある。

近年、タイや韓国への出稼ぎ労働がすごい勢いで増えている。特に韓国での季節労働では、日本円で月20万円くらい稼げるのだが、ラオスで家族とゆっくり暮らしながら、織り物や縫製で10万円くらい稼げるのであれば、ラオスに居ることを選びたい、と。

このように、ラオスの織り職人や縫製職人は、生計を立てることができる現金収入さえあれば、ゆったりと地元の村での暮らしをすることを望む人も多い。とはいえ、いまの織り物業界では、生計を立てることすら難しくなっているのが現状なのである。

非効率と経済性合理性は両立できるのか

ラオスの手織り物のような非効率な産業は、淘汰されるべきであり、そもそも、非効率産業の維持なんて不可能なのであろうか。

ラオスの手り織物においては、穏やかで幸せな世界観がラオスの非効率な手織り物を生み出しており、逆に、非効率な手織り物をして生活することが、穏やかで幸せな世界観を形成しているともいえる。
そのため、経済性を目指すためにあまりに効率化に寄り過ぎても、穏やかで幸せな世界観は維持することができないのではないだろうか。現状の織り物を高度に効率化すると、単なる労働や作業になる可能性もある。しかも、中途半端な効率化であれば、同質化してしまい競争力にはつながらないかもしれない。

とはいえ、発展途上国に関わる人から時々聞く「この国の人はお金が無いけど、生活は豊かで幸せだから、現状維持が良い」というのは、外部の人間のエゴで、世界全体として経済成長の方向に向かう世の中で、ある程度の経済性を担保しなければ、只々取り残されて、将来的に苦しい想いをする可能性がある。

だからこそ、バランスを考えるのが非常に難しいのだが、どんな状態が一番理想なのか、勝手に判断するのではなく、私たちは、ラオスの方々と対話しながら共に考え、共にその理想の状態を目指すことに挑戦している。

私は、穏やかで幸せな世界観を保つための非効率性(≒余白)を維持しつつ、経済性を作りだすことは、可能なはずだと考えている。

穏やかで幸せな世界観を破壊しないような経済性(≒効率化)を求め、しっかりと現金収入が得られるように、非効率でも価値を作る。そのためには、様々な角度からの新しい視点と、工夫やクリエイティブが不可欠なのである。

近年、日本でもウェルビーングと言われるように、お金だけでは測れない、人生の余白を作ることで、豊かで幸せな暮らしを目指す動きもある。いま日本が求めているだろう余白を持っているのが、ラオスなのかもしれない。

私たちのラオスの織り物と関わる事業は、一見ラオスのためだけに行っている事業に感じられるかも知れないが、「余白のあるラオス」と「経済性の日本」お互いが、各々の良いところを取り入れることに繋げていき、それが、結果的にラオスも日本も幸せな状態を目指すことにつながるのではないだろうか。

現状を考え、理想を考え、未来を考え、
現実的な行動を起こす。

非効率な産業と経済性の両立は非常に難しい。
けれども、その状態を目指したいし、できると信じている。
これこそが、私たちがビジネスとして行っている挑戦なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?