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ごりっぱスタジオ設立の思い「ホイッスルを吹くのは自分だけ」

下記文章は、前職のvelvetおよびBirdsが配信するナレーターメルマガ(2014年4月vol.248)に山上トモがナレーターとして寄稿した文章です。
この経験と想いが今も、ごりっぱスタジオを突き動すのです。

2014年の日曜17時30分。NHKのスポーツドキュメント「めざせ!2020年のオリンピアン」の1話目のオンエア。

思い通りの声が出ているか…こんなに緊張するオンエアはこれまでありませんでした。


というのも今回の番組は「サンプルの”あの声”が欲しい」というオーダーの元、サンプル選考の後、さらに指定原稿で収録を要請されるなど、スタッフ陣の番組にかける想いが凄まじかった。

プロデューサーのこだわりは強く「サンプルに収録されている、 山上さんの高音と低音が入り交じった”この声”であればスタッフ全員が納得します」とのことでした。

後でプロデューサーご本人からきいたのですが、実は事前に武信マネージャーからサンプルを薦められたものの「バラエティ系のかたは今回は…」と断ったのだそうです。

さらに武信さんから数人の候補を出されたもののこれも断り、それでも「山上がぜんぜん違うプレイをしてるサンプルがあるので一度きいてみてください」と武信さんが強くプッシュしてくださったことで、最後に耳にしてくれたのだそうです。

指定原稿のサンプル録りでは武信マネージャーが深夜まで残り、慣れない機材に苦労しながらサンプルを収録してくれました。読んだものはチャットで義村社長が瞬時にチェック。そんな風にして、全員でつかんだ現場です。


自分でいうのもずかしいのですが、このときプロデューサーが要求していた声の表現は、まさに僕がずっと、心に秘めていたものと一致していました。ただしその表現は売れたことがなかったので、自分からは言葉にできずにいました。

10代のころ、アメリカンホームドラマをみて『若者の葛藤や成長を描くような世界観を表現することに憧れて声業界に入ること』を決めました。

でもそうやって夢に描いたプレイも、たくさん通った声優養成所のどこにも認められず、サンプルに収録するたびに、周囲は半笑いかさもなくば「う、うーん…」という感じ。説得できない実力の自分が悪いのですが、それでも捨てる事のできない「いつかはどこかで」と大事に胸に抱きしめてきた声です。


ひとり義村社長だけは「短くてもいいからあの声は入れときなさい。いつか必ず、ある」と、出会った10年前からずっと言い続けてくれていました。結果が出せてない以上、僕自身も照れ笑いでごまかすしかなかったのに、です。

僕が番組デビューする理由になったラップナレーションにしても今回のドキュメントにしても、他の先輩プレイヤーたちが否定しても、義村社長だけは常に「売れる」と強く言い切ってくれました。このことがどれだけ僕を支え続け、同時にどれだけ義村社長が後ろ指をさされ、窮地にたたせることになったかわかりません。

義村社長が「山上が日本中のサンプルを収録するようになるんです」と唖然とする周囲に言いきっていたのもこの頃です。今、まさに日本中からバーズに来てくれて、大型番組のオーディションでも猪鹿蝶が多くの席を占めています。笑っていたプレイヤーたちはいなくなりました。


「とりあえずパイロット版のお試しで」から入ったオリンピアン。現場では”なんとか次も呼んでもらわなきゃ”といろんな想いに頭がいっぱいでしたが、読んでいくうち作品のすばらしさに「パイロット版に関われただけでもう十分だ」と思うようになりました。

まだ子供なのに、失敗と向き合いながら、目標にむかってすすむ若きアスリートたち。オリンピアンの指導のもと、ひたむきに練習に没頭していく姿がいじらしくて、いてもたってもいられない気持になります。その気持をすこしでも声にのせたいと没頭しました。読みおわりに「なぜか股関節が痛くなった」のはデビュー作品以来です。

”この声の表現”は、裸を見られているような恥ずかしさであり、同時にとっても怖いのです。ダメだと言われたら「じゃあこうしてみます」とか他の提案で逃げることもできない、僕にとって”最後の声”だからかもしれません。

そんな怖さも、映像をみていくうちに、スタッフ陣のちからを信じて預けられると思えました。どんな顔をするかわからない子供たちの”いい顔”をおさえるには、たいへんな想像力と準備の実行力が必要だとわかるからです。


僕はナレーターの他にスタジオやスクールの制作スタッフをやらせてもらっています。僕自身はこの仕事を天命だと幸せを感じていますが、「山上は売れないから制作スタッフにまわされた」と某ネット掲示板に書かれたこともあります。

また、ある人からは忠告を装い「山ちゃんはプレイヤーとしてそれでいいの?」と心ないことを言われたこともあります。胸がちりちりした時があったのも事実です。

スタッフをやっていなかったら。
ちょっとした写真を撮った経験がなかったら。

きっと、映像から受ける感動も今ほどじゃない。

「力のない山上でもそれでもなんとかナレーション業界に関わりつづけるには」と考え抜いてくれた、義村社長が描いたビジョンのありがたみをブースで感じました。


後日。武信マネージャーが急に電話を変わってくれた相手はプロデューサーで、「全員一致で4月からも山上さんでいくことになりました」と言ってもらったときは、うれしくてうれしくて、電話にむかって訳のわからない返事をずっとしていました。

自慢話としてだけ捉えられると悲しいし、人の人生を狂わしてしまう危険な言葉かもしれません。だから書くことにためらいもあります。ですが、今しか書けない、いちプレイヤーとして皆さんに伝えたいことがあります。皆さんが「きちんと自立してプロを目指していく人」として書きます。

 
「試合終了のホイッスルを吹くのは自分だけ」。

スクールで。オーティションで。現場で。くじけそうになる瞬間があるかもしれません。届きそうだった夢が指先からすり抜けていくような時。取り返しがつかないと思い込んでしまった時。

そんなとき「オリンピアン」に登場するみずみずしい才能たちを思い出してほしいのです。

みんな、最初は何気なくスポーツを始めるのですが(ポテンシャルの有無はあるかもしれませんが)「才能を開花させてきたのには」共通する条件があります。

それは【負けること】。天性の才能を持っていたとしても。そのままにしてきた天才はいません。「負けてはじめて始まった」のです。

多くの成果は泥の中です。同級生たちが青春を謳歌している夕暮れに、一人きりでグラウンドを走る少年少女がそうしているように、夢を叶えるためにはしっかり目をあけて現実に歯を食いしばっていかなければなりません。夢は「眠っていたら絶対叶わない」のです。

 
義村社長が数えきれない後ろ指をさされてきたことを知っています。武信さんは番組にたどりつくまで諦めませんでした。僕自身も唯一してきたことは「自分で諦めなかった」ことだけです。

ナレーションも厳しい芸能の世界です。正解は結果論ですから、人生を賭けて準備したものをぶつけて勝負しなきゃいけない時があります。批判や負けは誰だって怖くて足がすくみます。でもそれらを自分から避けることはしないでほしい。そこに人を動かすものはないからです。

うつむいてしまったら、視界のちょっと外に広がる可能性の空を見落とします。上を向いて歩いていきましょう。

オリンピックを目指す子どもたちに、6年後の自分を重ねて観てもらえれば、ナレーターとしてこんなに幸せなことはありません。長々と想いの丈を読んでくださってありがとうございました。


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