熊本研修旅行(01)田原坂
やることはゴンズイ玉。
起きる事柄、初体験。
そんな日々を過ごし
ハタ、と正気に戻ると
夢のように過ぎ去ったスタジオ設立から、
なんと半年が経っていたのであった。
融資やら宣伝広告やらの大物作業と、
春改編でたくさんの嬉しい報告をいただけた、4月。
時代は、
平成を閉じ、
令和に突入しようというのであった。
季節は、春であった。
春分の日生まれのワタイにとって
高まってしょうがない季節なのであった。
そんな訳で
成り行きとはいえ
この世に生み出してしまったごりっぱスタジオで
アイデアを出し続けていくため、
「魂の故郷」への参拝と
ドキュメンタリーや報道に関わる者として
震災後の様子を肌で感じるべく、
九州熊本へ旅立ったのでありました。
空港から直行したのは「田原坂」であった。
山ちゃん多分前世は
この田原坂で敗走した薩摩兵児だったと思うの!
かの有名な
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ田原坂
右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな美少年
の像も。
村田新八の息子・岩熊がモデルと聞いていたが
田原坂資料によると「会津生まれの人」という説もあるらしいのであった。
確かにソース顔の薩摩のニセドンというより
北方醤油顔の羽生結弦みたいな像であった。
加藤清正が熊本防衛のために築いたとされるだけであって
大砲を大八車に乗っけてヒーヒー押して登るにはエグすぎる勾配であった。
竹林のすぐ向こうはこれまたえげつない谷。
横山三国志が好きなら
すぐさま李典が火計を案じて夏侯惇に一喝されるシーンが思い描かれる一本道であった。
連日大雨のサッブイ中、
左右の竹林から
薩摩兵児が猿叫をあげながら突っ込んできたら、そりゃおそろしい。
越すに越されん訳であった。
結局官軍は「抜刀隊」を投入。
白刃戦に持ち込みつつ
(↑官軍側から見た田原坂)
遠距離からボンボコ大砲をぶち込まれて、
1877年3月20日
薩軍は田原坂を撤退する。
「田原坂資料館」の資料によれば、
写真に映る(画角の外も含め)全ての場所で、
戦闘が行われたという。
このあと
人吉やら延岡やら、九州を逃げ続けるも、
鹿児島にかえり、
西郷は秋頃には
「ここらでヨカ」になる。
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