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編まれた隔絶を、ふわふわ渡る

全然違う世界だ。そう思った。

私は今、デンマークにいる。大きなお部屋と、綺麗な街並み。様々な人や言語が忙しなく行き交う街路に、緑とゆとりに満ちた公園。とても自由で、開放的で、鮮やかな世界。私は新しい人々に次々と出会い、拙いながらも英語やデンマーク語、韓国語で会話を試み、めまぐるしく変化する日常を謳歌している。

一方、私の両親は、地元にいる。そこも緑が豊かで、ゆったりして、平和だ。しかし、父は抑うつ、記憶障害、感情の抑制の困難などが見られる高次脳機能障害と診断されている。母は毎日、一日中、父を見守り、通院に付き添い、日々の基本的な行動(例えば、お風呂に入る、ご飯を食べるなど)を誘導し(それをすること、それをしたことを忘れてしまうから)、あらゆるケアをしてくれている。新しい場所や新しいことは父にとってストレスになるから、いつもの場所で、細やかに気を配り、忍耐強く、「穏やかな日常」が送れるように。

どっちの世界がいいとかじゃなく、「違う」と感じてしまう。
地元から東大に進学した時も思ったけど、「違う」世界なんだと。

都市と地方、世代、そこの集団において基準とされている経済的水準、求められる教育レベル、移動の自由さ、「そこに当然としてあるもの」に対する考え方。そして、目の前に開かれている可能性と手を伸ばそうと思える選択肢の数。


「家族」という枠組みの中で


私の目の前には、無数とは行かないまでも、数多くの選択肢がある。
大きなもので言えば、大学を卒業する、奨学金をとって大学院に行く、就職先を選び、住むところを日本に限らず海外からも選ぶ。小さなことから言えば、自分の好きなように時間を使う、自分の好きなものを食べる、自分の好きな人と時間を過ごす、休みの日に好きなところに旅行する。

でも、それができているのは、父のケアをしてくれている母がいるからこそ。少しの間でも離れると、目の前にいつもの人がいないことに不安になってしまう父に時間と体力を使うことを覚悟し、忍耐強くケアを続けてくれている母がいるからこそ。もしお母さんがいなかったら、もし姉がいなかったら、もし祖父母がいなかったら、私はきっと、デンマークにはいない。

私の自由は、家族の不自由で成り立っている。

本人はそう思っていないかもしれないし、おそらく娘にそうは見られたくないだろうし、この状況を「可哀想」とか「不幸」とかでラベリングするつもりは一切ないけど。

「家族のおかげで」と言えば聞こえはいいけど、私がやっていることはもっと、傲慢なことだと思う。それにこれから先、私はどれだけ傲慢に生きていくのだろう、と思う。

私は東京で生きていく前提でキャリアを設計している。そこに、家族を日常的にケアするという考えは、おそらく前提から存在しない。私のやりたいことは東京にしかないし、私はとても野心的な人間だから。でも、そこに私は、私自身の特権からくる傲慢さを見出さずにはいられない。

たぶん祖父母は、私が東大じゃなかったら和歌山戻ってきてって思うだろう(母は違うけど)から、東大で良かったなぁって思ったりする。「もかは東大やからなぁ〜」で免除されることがたくさんある。ケア役割とか地方の女性役割の面で著しく。

X(twitter)より

私はきっと、私が「東大だから」さまざまな「家族」としての義理と、「家制度の中の女性」としての役割が免除されることを利用している。(その価値判断はさておき。)じゃあ、その特権により私がしなくて良くなったものを、「家族」の枠組みの中で、いったい誰が背負うのか。私は誰に背負わせるのか。

それは、現在は母。そして、将来的には地元の比較的近くに住む姉になる可能性が高い。姉と電話した時、姉はこう言ってくれた。「私は近いから、しばらくは月一回くらいお父さんとお母さんを見にいくことができるし、そうしたいと思うし、将来的にもかちゃんは仕事を頑張りたいと思うから、それは応援する。ただ、金銭的には来れない分出して〜っていうことがあると思うし、私が面倒を見て当然とは思わないでほしいなぁ」

幸い、姉は仕事をバリバリ熱血でやりたいタイプではないらしいので本当にありがたいことを言ってくれるけど、もしそうではなかったら。私は、特権を振り翳し、なし崩しに自分の責任から逃れてはいなかったのだろうか、押しつけていなかっただろうか、と思う。

つまり、私がこれまでの文章を通して言いたかったのは、私自身が自由に学べているのは、家族の不自由があってこそなのではないか、ということ。そして、私自身の特権性が、その「自由」「不自由」を傲慢にも正当化してしまっているのではないか、ということ。

ただし、ここまでの主張には前提があった。その前提は、私が生きるなかで「当たり前」に私に浸透していた、「家族の面倒は家族が見るべき」という価値観だ。言い換えると、「家族のケアをする責任は、第三者ではなくその家族のうちの誰かが背負うべき」という価値観、社会規範だと言える。

ここからは、その社会規範について思うところを書きたい。


「家族」の外に手を伸ばす


私は去年のある模擬裁判の舞台で、ヤングケアラーの少年の被告代理人弁護士として次の言葉を語った。

誰かが家族の介護を引き受ける時、そこに”選択”と呼べるものはないことがほとんどです。家族の介護が必要になった状況を前に、他にやる人がいないから、家族としての役割だからと引き受ける。

模擬裁判 脚本E.M.

介護の不備を家族の自己責任と切り捨てる発想は、家族だけでは抱えきれない介護の現実を見ていません。被告や被告の父親は、”人様に迷惑をかけてはいけない”と考えていたといいます。彼らにそう「思わせていた」のは、”家族の面倒は家族が見るべきだ”という、この社会の価値観ではないでしょうか。被告が孤立の中無理のある介護体制に陥ったことは、彼一人の責任ではありません。

同上

私は自分の家族にケアの責任の問題が立ち現れてから、この台詞、いや、社会に対する問題提起の切実さを痛感した。いや、私はケアする責任を免れているから痛感はできてないのかもしれないが、少なくともこの訴えの重要さを再認識した。

引用した模擬裁判は、統合失調症の母親を小学生の頃から、母の死後は認知症の父親を中学生の頃から、一人で介護するヤングケアラーの少年が公的支援を求めることができず孤立状態の中で介護を担い、担いきれず、徘徊した父親が電車に轢かれる。その後、その事故により遅延などが生じた鉄道会社からの賠償請求が少年に対してなされるという筋書きだ。

もし、この模擬裁判のヤングケアラーの少年のように「家族のケアをする責任は、第三者ではなくその家族のうちの誰かが背負うべき」だという発想しか持つことができなかくて、ケアができそうな人が家族の中で自分しかいなかったら。「家族としての役割だから」と、自分が介護の役割を引き受ける以外に、考えられる選択肢があるだろうか。他の選択肢があることに、気づけるだろうか。

もちろん、私の現在の家のように、家族が家族をケアすることを否定しているわけではない。また、うちの母は第三者の支援も適切に用いることができる人だと思っているので、その心配はしていない。

ただ、他の選択肢があることに気づけないと、「ケアする責任」の重さや「ケアする責任」の終わりの見えなさに、きっと、苦しくなってしまう。

ケアをする人が苦しむのは、ケアをされる側の人にとっても本望ではないだろうし、そのような状況では十分なケアが受けられなかったり、虐待が起こったりなどさまざまな問題が生じるだろう。また、もしその「ケアする責任」を引き受けたいと初めは望んでいても、その責任は重く、終わりが見えず、経済的対価も得られにくいため、耐えられなくなる可能性はある。「家族のおかげで」「家族だから」という美談が隠してしまう苦しみは、きっと、存在する。

その苦しさを、どう手放せるだろうか。どのような社会システムなら、どのような社会規範があれば、その苦しさを軽くできるだろうか。

それぞれ、自分の思う人生がある。自分の生きたい場所がある。自分のやりたいこと、なりたい姿があるだろう。そのような意志を、人生を諦めることなく、自分が希望する他者へのケアのあり方を、ケアをされる人の希望に沿う形で、実現することはできないのだろうか。

誰かをケアする、誰かにケアされる、その行為そのものは必ずしも苦しいものではなく、喜びになりうると信じている。「ケア」の意味を「面倒」ではなく、「喜び」に変えられる社会制度は、どうしたら構築できるだろうか。

これは何も知らない大学生の理想論で、抽象論ではあるけれど。

「私」のはなしと、「公」の話


結局私が言いたいことは、自分の家族のことなのかもしれない。

私は、自分の人生を自由に生きたい。でも、母にも、姉にも、そして父にも、同じくらい自由に生きてほしい。みんな、不自由になってほしくない。私「だけ」が自由に生きるのはなんか違う。自由ってなんなのかわからないけど、なんとなくみんなが幸せだなって思える瞬間を共有できる家族がいい。凸凹していたとしても、悲しい瞬間があったとしても、見えている世界の「違い」を飛び越えられる家族がいい。

その一方で、東大に行って、留学にも来て、将来政策に関わることを目指している私は、より広く、多くを語るべきだとも思う。

少し戻るが、「家族のケアをする責任は、第三者ではなくその家族のうちの誰かが背負うべき」という社会規範は、近代の公/私の切り分けのもと、再生産労働(食事、洗濯、育児、介護などのケア)を私的領域に担わせるために効果的であったのだろうと思う。しかし、個人主義の広まりや単身世帯の増加、核家族の増加、少子化、日本社会全体の超高齢化などを鑑みると、「もう無理じゃね?」と正直思う。

どのような制度がどのような経緯で作られ、運営され、それはいかなる前提の違いに起因し他国と違うのか。この現状に対していかなる対応策が語られ、それは何を目指しているのか。このテーマを、留学中、そして日本に帰ってからの宿題にしようと思う。

編まれた隔絶を、ふわふわ渡る


バイト先の韓国料理店の韓国人のオーナーが、家族にセーターを編んでいる。くるくると軽やかに動く指先から、糸が、あったかい布になっていく。デンマークで韓国料理を毎週食べることになるとは思わなかったし、韓国語を(ちょっとだけど)勉強するとも思っていなかった。お隣の国から、空を飛び、海を越え、山を越えて、それぞれの故郷とまったく違うところで出逢う。

長い長い歴史の中で、幾多の人々により編まれた隔絶を、ふわふわと、あっけなく、渡ることができる瞬間がある。もちろん、なかったことにしてはいけないこともあるけど。

その希望とぬくもりを、自分の手でも、編むことができたら嬉しい。








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