見出し画像

ふんわりとひたひたとじわじわと

わたしの中の思い込みやかんちがい。

はやく掴みたいという気持ち

わかりたい、知りたいという気持ち
もっと深くふかく。

どうしてなのだろう?
それはどういう意味なんだろう?

言われてはてな❓となる言葉が
頭上に浮かぶ。

腑に落ちて自分の中にぴたっとするまでは
そこに浮かんでいる。
アタマで理解しようとするものは
やっぱりアタマでしかない。

言葉、同じ言葉を使っていても
双方で受けとるそれは全く一緒じゃない。

人によって同じ言葉を使っても
意味するものは違っていたりする。

だから言葉だけでキャッチボールしても
実はその言葉の受けとる意味が違っていて
ズレることもある。

だから一生懸命に言葉だけで理解しようとしても
それは一致しない。

だとしたら
一生懸命に言葉でキャッチしようとすることって???

一生懸命に言葉で伝えようとすることって???

それって意味あるの?
感覚的にとらえる人との対話では
特にそれがあまり重要ではないのかもしれない。

私もぴったりな言葉が見つからなくて
発した途端になんかニュアンス違うことがよくある。

だから非言語であるアートはその点
わたしはとても助かるのかもしれない。

言葉で時に一生懸命に話すのは
人にわかってもらいたい。
その根底にはどうせわかってもらえないと
いうのがあるから
一生懸命に補足しようとして
口から出てくるのかもしれない。

でも、それがかえって邪魔することも
あるのかもしれないと思う。

そこまで補足を一生懸命にしなくても
伝わる人には伝わる。
そして余計なことはかえってしなくていい。

無理したり、力んだり。
本当は無理にわかってもらおうとしなくても良い。

人に求めなくてもよい。

本当は自分がわたしをそう理解していればいい。

外ではないということ。

そっとそっと自分に還り
大丈夫。
わたしがわかっているよと
自分でわたしをハグしてあげられていたらいい。

外に求めず
もっと自分に。
わたしに。

時にわかりやすいものを
求めていたのかもしれない。
形あるわかりやすいもので。

でも最も大事なのは
本当は形などないもの
目には見えないもの

感じるもの

それをエネルギーというのかもしれない。
バイブレーションや波長というのかもしれない。

言葉や目に見える形など
わかりやすいものでは実はないのかもしれない。

何となく感じる
ぴたっとするものや
何か違和感をうけるものだったり。

ある意味、実態として
言葉にしがたいそれだったりして。


そしてそれは
すぐにわからないものだったりするのかもしれない。

すぐに答えを見つけたり
わかりたいと焦って
浅いところを掴んでも
それは時に無意味で
一過性でわかったつもりで終わる。

でも、本当に大切なものは
きっとそんなもんじゃない。

だから信じて待つ。

慌てて掴もうとしなくてもきっと
大丈夫なんだろう。

必要な時に
ぽん!と受けとれる時が来るのだろう。

だからその時を信頼して
楽しみに待つ。

手っ取り早く掴んだり
わかったつもりはもういやなんだ。

それじゃあ、もったいない。

だからいますぐに
わからないならそれでいい。

信じてその時を
タイミングを待つことが出来たら
それはなんか楽しみなギフトが
やってくる予感がする。

待てなかった私が
待てる私に。

それは信じる力。
信頼する力。


バタフライピー
初めて見つけた。
綺麗な色



いいなと思ったら応援しよう!