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現代小説訳とは? 本論

 「現代語訳」ではなくなぜ「現代小説訳」なのか。

 まずは芥川龍之介の言葉を借ります。

「『今昔物語』の作者は、事實を寫すのに少しも手加減を加へてゐない。これは僕等人間の心理を寫すのにも同じことである。尤も『今昔物語』の中の人物は、あらゆる傳説の中の人物のやうに複雜な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べてゐる。しかし今日の僕等の心理にも如何に彼等の心理の中に響き合ふ色を持つてゐるであらう。」
                   「今昔物語鑑賞 芥川龍之介」より

 しかしまあ、名文ですね。心理を色に例えるとは。
 芥川が喝破しているように、今昔物語の登場人物はおよそ「心理の陰影に乏しい」です。子どもが洪水に流されてもまた作ればいいと言い、留守の間に妻が死んでいても嘆き悲しむことはなくその横で寝ます(さらにあんなこともします)。現代とは思考の構造が違うのですからそりゃそうです。しかし、現代の私達も「彼等の心理の中に響き合ふ色を持つて」います。
 人間の根源である「原色」が現代の私達にも響き合う。こう考えるだけで「今昔物語」の世界が何だか、妖しくてぎらぎらしたものに見えてきます。王朝文学のみやびやもののあわれとは違う、平安の人々の闇の中の「原色」が見えてくるような、そんな期待を感じるのです。
 しかし,そのまま訳したのでは陰影に乏しいので読み取りにくい。楽しく読むための色付けを、「現代小説訳」でできないかという試みが始まりです。心理描写をもって近代文学の出発と見なす認識もありますが、平たく言えば古典に心理描写や視点人物の変遷による物語の構造化やあれやこれやを持ち込んで楽しく書いてみようと、そんなコンセプトです。

 芥川龍之介などという巨人を嚆矢に据えるなどおこがましいにも程がありますが、実際そうなのだから仕方がありません。何かの折に(ネットサーフィン中だったと思うのですが)この「心理の陰影に乏しい」という言葉に触れ、しかも「へえ、たしかに」と思ったのがきっかけで書き溜めたものを拙文ながら上げさせていただいています。
 素敵な色をつけられているかどうかはさておき、読んだ方が古典に興味をもち、言葉の世界が広がれば幸いです。

(なんて偉そうに書いてますが、コロナ禍で時間ができたのが書き始めた一番の理由です。行動の理由なんて、後からあれやこれや後付すると仰々しく複雑になりますが、もともとは「陰影に乏しい原色」に過ぎないのかもしれません。)

 なお、「今昔物語集 現代語訳プロジェクト」に参加して原文に忠実な現代語訳も作成しています。

 芥川と今昔物語の関係に興味をもたれたら以下のサイトもおすすめです。
 芥川龍之介、『今昔物語集』を語る(名文だ)
 日本の古典を題材にした芥川龍之介の作品
 芥川龍之介と古典
 芥川龍之介と『今昔物語』のこと