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産まれて、生きる事を『強制』された人達へ。


僕は反出生主義者なのかもしれない。簡単に説明すると、人は産まれて来なければ良かったのかもしれない。という考えである。物凄く物騒な話かもしれないけど、相模原のやまゆり園の事件のような障害者は社会的な害を与える存在、意味のない存在だから殺して否定するというものでは断じて無い。産まれて来る前の存在の否定なのだ。これから産もうと思っている人やその魂に、もっと立ち止まって考えた方が良いんじゃない?という考えである。

存在するものを殺す=殺人や殺生、存在の否定。
存在する前に止めたり、考え直す=反出生主義、存在しない状態のもの(魂や産まれて来る前のもの)の否定。

例を挙げるなら身籠った子供が障害を持っている事が分かったとして、そこで降ろすのか、産むのかと言う場合だとする。例え降ろしたとしても殺人という罪にはならないし、産んでも最後まで責任を持つ覚悟が出来るのなら産んでも良いと思える。しかし、子育てやその人の人生を背負うという事は育てる親にも経済的な影響が出る為、育てていくことが不可能もしくは厳しいと思うなら、この世に生まれる前に避妊を行い、互いにもっと話し合うべきだという事である。親の都合では無く、本人の為に。

勘違いしないで欲しいのは僕自身別に殺人を肯定するわけではないないし、むしろ辞めといた方が良いとはっきり言う方である。半出生主義だと、親が産んでくれたのだから必死に生きなければいけないとか、生まれたくなかったと思っているなら死ねば?と言われるのだが、そうではない。それはもう僕にとっては殺人なのだ。


この世に生まれたからには、生きなければならないと思っている人しか存在していない。


自分の意思とは関係なしにその選択肢を親によって『強制』されている。親のエゴによって僕らは産み落とされてしまったのだ。

僕はそこに疑問を持っている。親が子供を欲しいと望んだからという理由だけで、この生きづらい世の中に放り出されてしまったのだ。産まれたからには生きるか死ぬか以外の選択肢しか選べない。無責任な状態ではないかと。僕らはある意味ペットのような存在なのかもしれない。

自分が寂しい、可愛いから、何かしらの役に立つ、暇つぶしと言った自分の欲やエゴ、保険の為にペットを飼うのと同じなのかもしれない。別に犬や猫は人に飼われる為に存在する訳でも、娯楽のために産まれてきた訳じゃない。犬は犬として、猫は猫として産まれてきた。誰かに飼ってもらえて幸せだねなんて到底思えない。僕らが勝手にペットの意見を解釈しているに過ぎない。本当は何も知らないのに、自分の思うようにさぞ幸せだろうと決めつけている。動物園で一生を終えるのと、野生の中で厳しくも強く生きている動物たちとでは、どちらが『自由』に生きていると言えるのかという話なのかもしれない。

僕らにも同じことが言えるのではないだろうか。親が欲しいと思ったから産まれた。そこに僕らの意思は関係ない。一方的で自己中な欲のもとに生まれたのだ。子供は私達の為に生きるべきだと言う親がいる。面倒を見てきてやったのだから、金を注ぎ込んだのだから、家族なんだから当たり前と言って解釈して、押し付けて来る。気持ち悪さを感じる。僕はペットを飼いたいと思う事はあっても、自分の意思で買う事はなかった。ケースに入れられて、命に値段を付けられているペットに同情してしまうから。産まれた子供は親に依存しなければ生きていけない。大人になって自立するまでは他人に依存しなければ生きられない。それを面倒を見てやっているというのはおかしい。面倒を見ると決めて、産んだのは親なのだから。

人一倍自由に対する憧れが強い。他人の常識に従いたくない、ペットになりたくない、一匹狼のように彷徨いながらそれでも生きたいと強く願っている同時に、産まれなければ良かったのではないかと思う。苦しみも怒りも悲しみも恨みも、産まれなければ何も感じないし、抱く事もない。戦争も差別もしない。本当の世界平和なのかもしれない。

辛い世の中の生きづらさを楽しい事や、友人や趣味や恋人と過ごす時間で薬のように抑えながら今を生きるしかないのだ。

今生きづらいと思っているあなたへ。僕は生きることを肯定し、死ぬことも肯定している。ただ、闇雲に誰かを殺したりすることは否定する。存在しないものを否定する。産まれたくもないのに生きることを『強制』されたあなたへ。あなたらしく、そして自分らしく生きられるように僕らは考え続けなければならない。











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