容姿いじり
今日、朝の「ワイドナショー」で3時のヒロイン福田麻貴さんのTwitterでの発言を取り上げて議論していた。
全体的になんとなく記憶している範囲で書く。本来なら出典など細かく表示すべきなのだろうが、時間がかかるので、やりません。
福田氏のTwitterでの発言は3時のヒロインは容姿いじりをネタで辞める宣言。
容姿いじりはお客さんに年々受けなくなっているからだそうだ。
僕もお笑い芸人をやっていた時、こんなことを経験した。
ネタ中のことだ。相方の容姿をいじるようなことをした。
ウケはしたのだが、後から別の芸人に言われた。
お客さんの一人が、学生時代に容姿をいじられたことを思い出し、不快になった、と。
いろいろ、言い訳はある。
例えば、僕らのネタの場合、ボケが容姿をいじるわけだから、それは逆説的な意味だと。
でも、それを言い訳にしても意味がない。
それを受け手の感受性のせいにすることほどカッコ悪いことはない。
その人のことは、笑わせられなかったのだ。
ワイドナショー内でも、リアルと作り物の境目がわからなくなってきているんじゃないか?
というような話が出た。
僕はそもそも、境目は曖昧だと思ってる。
舞台上の容姿いじりは、フィクションだろうか?
「容姿」を「いじる」わけだから、リアルな容姿ありきだ。
また、それによって笑いを生み出そうとしたことはリアルだ。
そして、人が容姿をいじるのを見て「笑う」現象もリアルだ。
安藤優子さんが聞いていた。なにが面白いのか?
僕は、うまく言えないけど、裸の王様に裸だ、ということにあると思っている。
裸の犬に裸と言っても面白くないわけだ。
ただ、権力者である王様は、服を着ているつもりで裸の状況なわけだ。
権力者に気を遣うから、皆、「裸だ」と言えない。
しかし、「裸だ」と伝えることで、立場の逆転が起こる。それが面白いのだ。痛快なのだ。
カタルシスを生んでいるのだ。
お笑いに限らず、表現の場は多かれ少なかれ、理性により鬱積した情動を解放し、快感を得る場なのだ。
立川談志が生前、落語は「業の肯定」だと言っていたのも、そういうことだと僕は解釈している。違ったらすみません。
つまり、容姿をいじれなくなればなるほど、容姿をいじることが面白くなるジレンマもあるのだ。
もちろんその前提に、「裸」であるものが「愚かな」王様である必要があるのだが。
そして、これは松本人志さんの冗談だろうが、
単に笑わせる腕がないだけかもしれない、と言っていた。
これは、僕らの場合はホントにそうだった。
もっと言葉を選べば、順番を変えれば、フリを丁寧にすれば、表現のしようはあっただろう。
そして、松本さん、というかダウンタウンはもう少しすごいことをやっていた。
これは、ナンシー関さんが言っていたことだが、人気絶頂だった貴乃花や田村亮子を、容姿でいじっていたのだ。
怖いのは、それで笑いをとれること。
ここでいう王様の貴乃花や田村亮子は王様であるが賢王できちんと服を着ている。
その服を言葉一つで脱がすことができたわけだ。
映画「利休にたずねよ」であったセリフ
「美はわたくしが決めること」のように
お客さんが笑うかどうかではなく、笑いとはダウンタウンだったのだと思う。
これは飽くまで余談であるが。
ホントに記憶だけで書き殴ってるので、すみません。