「犬と一緒に過ごせるカフェ」を求めて心が削れた体験記③
3回目は小夏ちゃんとやっと、ほんとうの目的地である「犬と一緒に過ごせるカフェ」に到着してからのおはなしです。
以下は、道中、もうすでに心が折れきっている1回目、2回目です。
最後の階段をエイヤーと駆け上がる
2度の乗り換えをへて、やっと目的地の地下鉄駅に着いて、地上にあがろうとしたけれど、エスカレーターが見当たらない。
がーん。これが「エスカレーターがない駅」というものか、と思いながらも、駅から近いお店とはいえ、もう時間はぎりぎりだ。
探せばもしかしたら見つかるのかもしれないが、うろうろと探している時間もない。
うんざりする目の前にある長い階段をまた、5キロ超の小夏ちゃんが乗るキャリーをすでに筋肉痛でだるい片手に持ち、エイヤーと最後の気合を振り絞って、わたしは一気に駆け上がっていった。
そして、地上について、小夏ちゃんに出てもらって、さあ、あとはお店を目指すのみだ。
とはいえ、駅から徒歩一分のお店とはいえ、初めていく場所はなかなかに迷う。あとは、このへんは、道路も狭くて、自転車もびゅんびゅん走ってきたり、人通りも多かったりして、アウェイだからなおさら、左手にキャリーを持って、だるい右手で犬のリードを操作するのが、かなりそれだけでも神経が消耗される。
やっとの思いで辿り着いたカフェの扉を開けるも…
そんなこんなでみつけた、きょうのほんとうの目的地のカフェ。
事前にネットやインスタとかで見ていたとおり、木のあたたかみのあるおしゃれなカフェだった。
姉妹店もあって、人気ドラマのロケで使われるのもうなずける。
わたしは、初めて訪ねるカフェを見つけ、その扉を開く瞬間というのが、とても好きだ。
やっと見つけたぞ、という気持ちと、おそるおそる扉を開いた先に、どんな世界が広がっているのかというわくわく感が、いちばんピークになる。
だけど、その自分にとってのハイライトは、一瞬にして打ち砕かれることになる。
左手にキャリー、右手に小夏ちゃんを抱き抱えて、片手で扉を開けようとしたけれど、木の扉は思ったよりも重くて、なかなか思ったように開かなくて難航した。
なので、いったん、キャリーを置いて、両手でしっかりノブを持ったら、やっと重い扉が開いてくれた。
平日ランチのピークの時間帯だったので、店内はすでに犬連れのお客さんや、近隣の会社のサラリーマンと思われる人や女性たちでにぎわっていた。
と同時にわたしは、別のお店に入ってしまったのではないかと不安になった。
なぜなら、やっとこさ入店してこちらから目配せしながら待っていても、お店のスタッフさんたちは、キッチン、ホールの方々、まず、誰ひとりとして、新しく入店してくるお客の存在に気づかない。
孤独で長く感じられる時間。
ああ、わたしは、とくに初めて行くお店で、この気まずい時間が苦手なんだった。
苦手だから、消え去ってしまいたい気分だった。何度か声をかけても、スタッフだれもが無反応。お願いだから誰か早く気づいて…。
「ドッグフレンドリー」なのに、犬の存在に目もくれてもらえない悲しさ
しばらくたって、気づいた無表情の男性が、めんどくさそうに「はい、なんでしょう?」という横柄な態度で近づいてきたので、「予約した○○です」といったら、案内された。
もう、それだけで帰りたかったけど。
わたしにはかろうじていちべつしただけで、小夏ちゃんの存在など、目もくれない。
人間同士だったら、あー、まあ、居心地よくておしゃれだし、そういうところでかっちり「お客さま」として対応されても、かえってかしこまってしまうし、むしろそのくらいの距離感の接客がちょうどいいと、わたしは思っていただろう。
だけど、「態度」とか「行動」といった簡単には表面的に説明できない部分で、小夏ちゃんもひとりのお客さんとして、認めてもらえないように感じられて、わたしはそれだけでもう、とても悲しい気持ちになったのだった。
「ドッグフレンドリー」のカフェとして、ネットやSNSでも口コミがよくて評価の高い店だった。
「ドッグフレンドリー」ということで、わたしは求めすぎているのだろうか。
入った瞬間かんじる「ないな」
無表情な人はいるし、横柄なかんじの印象を受ける人だっているし、ミステリアスなかんじの人とか、いろいろいるし、だからといって、その人の中身はわからないし、それがお店の個性だし、いいとか悪いとかではない。
だけど、少なくとも自分たちにとって、入った瞬間、その瞬間でかんじられるいろいろな情報が瞬時に勘案された結果、「ないな」ってお店だった。
初めてのお店に入った瞬間って、いちばんいろんなことを、あらゆる五感や第六感も含めて、感じ取る、短くても濃ゆい時間だと思う。
そこで感じるものを、わたしは大切にしてるから、がっかりさせられる事前の電話対応の時点からしてすでに「ないな」と思っていたのは、そこでまだ決めるのは早いと思って行ってはみたけれど、もうこれで完全に「ないな」となった。
「ないな」というお店に入ってしまったら、さっさと注文して、さっさと出ることだけを考えるのみだ。いつものことだ。
まるで無法地帯
さらに、案内はされたものの、犬がどこに座ったり、リードをかける場所があるのかとか、犬が椅子にあがれるためのひざ掛けやマットとかあるのかとか、犬同伴の際のルールも、ノー案内すぎてまったくわからない。初めてなのに。
ほかの犬連れの人たちのようすを見たりきょろきょろと戸惑いながら、ただただ、先のぶっきらぼうな男性スタッフから、「お水です」といって、人間用と犬用が、機械的にばさっと置かれて、こちらの戸惑っているようすなどおかまいなしだ。
そうやって、「あまりかまわないのが、ここのスタイルなんだ」と、わたしはそれでも、そのお店の雰囲気に適応しようとしたし、肯定的に受け止めようとした。
だけど、放し飼いしてちょろちょろしている犬がいたり、椅子にじかに座ってる大型犬がいたり、犬連れじゃない一人客や、ランチのサラリーマンや、女子会の女性たちなど、さまざまな属性の人たちがいて、いわば、ただただ無法地帯といった印象だ。
そこに目を配っているスタッフが誰もいないのだ。
犬界のインスタではすっかりドッグフレンドリーなカフェとして浸透しているけど、リアルにはべつにそれをかかげて営業しているわけではない。だから外からは、駅近で便利で、おしゃれだから、いろんな人がランチに利用するのだということもうなずけた。
「犬と一緒だと食事がまずくなる」
そんななか、いちばんショックな言葉をわたしは耳にすることになる。
となりの席に座っていた中高年の女性2人組の言葉だった。
「こんなにたくさん犬がいると、食事がまずくなるわね。数匹くらいならまだいいけど」「そうね、食欲が失せてくる。さっさと帰りましょう」
声も大きいので話がすべて丸聞こえだったからなのだが、どうやら、普通のカフェだと思って入ったら、犬連れがけっこう集まってくるスポットだったことをあとから知って、「だまされた気分」とのことだった。
会話によると、入店したときは、離れた席に、おとなしい小型犬が1匹2匹くらいだったので、気にならなかったが、「5匹も6匹も犬が集まってくると、気持ち悪いわね」ということだった。
それで、向かいの席に目をやりながら「きっとあの(犬連れの)人は、子どもいないんでしょうねえ。だからあんな洋服着せて、子どもみたいに溺愛してるんでしょうねえ」「そういえば、(2人の共通の知り合いの)○○さんも、子どもいなかったわよねえ」「あー、だから犬飼ってるのねえ」と、犬を飼う人を下に見て憐れむ会話をすることで、自分たちの店選びの失敗を、なんとかなだめようとし合った。
偏見丸出しな会話を、わたしも小夏ちゃんがいる横で、平気で言える人たちが、わたしは信じられなかった。
飼い主、犬ともども萎縮しているのに「あの気持ち悪い犬とちがって、『おりこう』」などと言われ
だけど彼女たちは、小夏ちゃんにたいしては、「この子はお行儀がよくてとてもいい子ね」といって、気に入ったようで、笑顔で声をかけてきた。
そりゃそうだ。こんな「ドックフレンドリー」とかうたって、ドッグを萎縮させるような店で、小夏ちゃんは、ものすごく空気を察するので、ただ萎縮していて、それで逆に警戒して吠える犬もいるけど、小夏ちゃんの場合は、ものすごく「おりこう」になるのだ。
ちなみに「おりこう」とかぎかっこをつけたのは、わたしは犬におりこうさんというのが嫌いだからだ。
その飼い主と犬ともどもに萎縮している態度が、彼女たちにとっては、「ほかの気持ち悪い犬とその飼い主」とちがって、好ましいというのだ。
勝手に比べて、勝手に評価してきて、失礼でしかないのに。
それで、小夏ちゃんをなぜかべたぼめしながら、その彼女たちは、「きょうの店は失敗だったわね」「そうね、次は犬なんていない店に行きましょう」と店中に聞こえるように大声で言って、そそくさとお会計をして帰っていった。
だれもがいい気分をせずに、帰っていく、そんなお店。
「だまされた」という気持ちもわかる
わたしもぶっちゃけ、偏見丸出しな会話を犬連れの前でするのはどうかと思うけど、なにもしらずに間違えて入ってしまった彼女たちの「だまされた」という気持ちも、すごくよくわかった。
「だまされた」彼女たちを責められない。だって、店側も、犬同伴OKな店ともかかげていなければ、同伴でない一般客にも理解を求めることも、なにひとつしていないのだから。
犬同伴客にたいしても、一般客にたいしても、どっちにも無責任に思えてしまった。
あらゆる犬と一緒に過ごすことは、ハードルが高い
そして、これも犬連れの前で言うのはどうかとは思うけど「犬と一緒に食べると、食欲が失せる」というのも、わからなくもなかった。
事実、わたし自身の食欲もかなり失せて、味がしなかった。こんなにたくさんの知らない犬に囲まれながら食べるというのは、慣れないからというのもあるし、わたしもそういうことが苦手なんだと思った。
大型のわんちゃんが向かいに2匹いて、うち1匹がこちらを見て、ずっと黒い大きな舌を出して、終始ハァハァという唸り声をあげていた。彼女たちはそれを「気持ち悪い」と言っていた。
わたしも、実は、そう感じてしまったひとりだ。正直に言う。
その家族連れにとっては、毎日見慣れた大切な家族の一員だとしても、初めてそれを目にする感覚というのは、たとえ犬と暮らした経験や理解のあるないにかかわらず、慣れていないものと、カフェという同じ空間で一期一会でたまたま共有するにしても、そもそもが、かなりハードルが高いことなのだ。
それもなにもかも受け入れるのがドッグフレンドリーだとしたら、わたしもけっこう排他的な部類だ。
百人百様の「ドッグフレンドリー」がある以上
わたしが、さきほど、小夏の存在をお客として店員に認めてもらえなくて悲しかったと「ドックフレンドリー」への疑問を呈したわけだけれど、そのハァハァした大型犬の家族にとっても、その家族が思う「ドッグフレンドリー」というものがあるわけで、それぞれの「正しい」「ドッグフレンドリーのかたち」というものは、百人百様あるのだと思う。
そのばらばら加減が、人間の「子連れオッケー」における共通認識よりも、犬のほうがかなり幅広くばらばらなのだと予想される。
そして、「ドッグフレンドリー」というなんでもオッケーで包容力が一見ありそうなやさしそうなこの言葉は、だからこそ、店員も、このような無法地帯状態になっていようが、近寄らず、傍観しているような、無責任な態度とも映ってしまう。
と同時に「ドッグフレンドリー」だからそれは正しいスタンスだとも言える。お前の考える「ドックフレンドリー」がすべてではない、と言われればそれまでだからだ。だから誰も何も言えない。
百人百様の「ドッグフレンドリー」を尊重した結果、ああいう無責任な形になるというのなら、うなずける。
誰もにとっての「インクルーシブ」を実現することの難しさ
ドッグフレンドリーと似た概念として、さいきん、宿泊施設とかでも「インクルーシブな宿」をコンセプトに掲げるところが増えている。
公園だったり、学校教育も、「インクルーシブ」という言葉は浸透してきている。
その言葉を突き詰めていけばいくほど過激化する問題や諍いとも似ている。
だから「インクルーシブ」だって言ってるじゃんと推進したい側は主張するのだけど、それがほんとうの意味で実現できれば理想的な社会が訪れるはずだとわたしも願ってやまないのだが、だれにとってもの「インクルーシブ」を包括しようとすると、いつまでたっても争いがやまないという矛盾をはらんでいる。
真の「ドッグフレンドリー」を追究する先にあるもの
それと同じで、真の「ドッグフレンドリー」とはなんなのか突き詰めたところで、犬連れ同士でさえ、争いの先鋭化しか起こらないことが予想される。
ここはもう、さわらぬ神にたたりなしというスタンスが経営安定上もいちばんいいのだろうし、「ドッグフレンドリー」の正義や正解を突き詰めようとするような人などは、そもそも「客じゃない」のだろう。
たぶん、今回みたく、「無法地帯になってんなー」と思いながらも、真正面から受け止めて悩まず、静観して、「ちがうな」と思ったら、それ以上は深く考えずに、君子危うきに近寄らずみたいな心持ちが、お客のたたずまいとしてよかったのかなと、冷静に振り返って思った次第であった。
「ごめんなさい」が行き交う、誰もがハッピーになれない空間
先のハァハァな大型犬を2匹連れた家族連れも、やはり、そそくさと帰っていった。誰もが長くはいたいと思わない、その時間帯の空間がたまたまだったのかもしれないけれど、隣のランチで来たサラリーマン二人組に、何度も「ご迷惑かけてごめんなさい」とぺこぺこと謝りながら、席を立った。
犬連れじゃない人も、いやな気分をし、わたしを含む犬連れも、謝りまくる。「ごめんなさい」という言葉が店内を駆け巡る。マナーの悪いお客さんなど、ひとりもいない。だけど、犬も萎縮したり、逆におびえてハァハァと不安定になっている。
誰もハッピーにしない「ドッグフレンドリー」な空間。
わたしも、小夏ちゃんに申し訳なさしかなくて、「こんな場所に連れてきちゃってごめんね」と何度も謝って、もう電車はこりごりと、帰りはタクシー拾って帰った。
1200円のランチの何倍ものお金が一気に飛びました。
ちーん。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?