「わたしには希望があります」
寝る前に、ちょっとひとことだけ。
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あっという間に、寝る時間がくるということ。
寝る時間、というよりも、本来寝るはずの時間よりももっと遅い時間に気づいたらいつもなってしまっていて、結局きょうもやりたいこと全然できなかったな、やりたいこと、まだ全然余ってるな…みたいな、積読が何十冊もあるような、ぜいたくなのだけど、むずがゆい感覚。
そんな感覚とは真逆の世界にいたときの、あれこれを、お風呂上がりの髪にドライヤーをかけながら、ふと思い出したのだった。
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どうやったらあしたを迎えなくてすむかを試してた夜だったり、1秒がすぎるのすら長すぎて苦痛で、早く1日が終わってほしいと、それだけを思って死ぬように生きていた、死ぬ気力すらないくらいのときのことだったりとか、強制的に睡眠薬を飲んで1日を終わらせていたときのこととか。
長い長い時間だったなあと。
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「わたしには、希望があります」とテレビドラマの主人公だったり、巷からも、そんなセリフを聞くことがある。だけど、少なくともわたしにとっては、あまり心に残らずに、サラッと素通りしてしまうようなセリフだった。
だけど、いままた、生き直そうとしているなかで、長い長い苦痛なだけの時間には、「希望」というものがなかったんだなと、それは当たり前のことなのかもしれないけれど、わたしにとっては、なくなったことで、初めて「希望」というものの存在に、気付かされたのだった。
”ある”ときには、その存在が空気のようにまったく見えなくて、だけど、「希望」を、あるときふとしたきっかけだったりでなくしてしまったとき、いともたやすく生きるという風船をひゅるひゅるとしぼませてしまうもの、それが「希望」だった。
たかが「希望」、されど「希望」、である。(さいきんハマっているバナナジューススタンドのキャッチフレーズみたいだ)。
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だから、これはもう主観もいいとこだけど、「希望」のすごさに気づけた人は、強いような気がする。
誰にとっても、ひまわりのような存在のヒロインでいるような、誰かのための、みんなにとっての、そういう強さのことを言っているのではなくて、自分が自分であるための、自分のためにある、脆弱性に耐えうる強さを持つというか。
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そんな「希望」をふたたび、わたしはどうやって、いまにいたるまでに、作ってきたのかも、いつそれがまた生まれ始めてきてたのかも、なにがきっかけだったのかも、自分でもよくわからない。
わからないもの、目に見えないもの、それが「希望」だから。
だけど、なんとなくこれだけはいえるのは、なんらかの”ひとつひとつ”が作っていったんだろうなあということ。
いま生きているということ、それは「希望」がある、ということだ。