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自閉症だったわたしへ
昨夜、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だったわたしへ」の3巻を読み終えた。
正直な感想、これはもう、ついていけないと思った。自閉症の世界に、というか、彼女の世界に、ついていけないと思った。
「自閉症だったわたしへ」は、わたしが彼女と同じ「高機能自閉症」だと診断された10数年前に、あなたと似た人がいるから読んでみるといいと主治医からすすめられて手に取ったのがきっかけだった。
いま、時間があることもあって、あの当時出会ったいろいろな本を手に取ったりして過ごしている。「自閉症だったわたしへ」も、当時のわたしにもっともインパクトを与えた作品の一つだった。
同時に、あれから10数年たったいま、いまわたしがこうやって読み返すということは、どういう意味があるかというと、
自閉症であるとかないとか、そういう世界からは卒業しかかっているのをなんとなく感じ取ってるから、こうやって手に取って読みたいと思っているのではないかとも思う。
わたし自身、わかっている。
もうたぶん、「あの世界」にはわたしは二度と戻らないということを。
それでも、これまでは、「あの世界」を失いたくないという気持ちが、どういうわけか強かった。
だけどいまは、手放してもいいというか、どうでもいい境地になった。
失うことへの感傷もなにもない。
幼少期から恋愛、結婚までを彼女自身が全3巻にわたって描いた「自閉症だったわたしへ」の1巻は、いまも読んでもすてきな文章だなあと思う。
だけど2巻はだんだんついていけなくなって、
3巻は完全についていけなくなる。
結婚相手となるイアンとの、これまでのようにひとりぼっちではない、「わたしたち」という「ユニット」を組んで、彼女は「世の中」というものに挑むわけだけど、
正直、読んでて、鼻持ちならない気分になった。
なんてあつかましい、「わたしたち」という迷惑な「ユニット」なんだろう、と。圧力団体なのか、と。
しかも、「わたしたち」なんて言っておきながら、結婚相手のイアンは、そこにいるけどいないも同然で、
相変わらずドナは相手のことを見ているようで、自分のことしか見えてないし、自分と相変わらずたたかってて、
相変わらずドナは一人芝居をしているだけで、読んでて痛かった。
ああ、ここまで行っちゃったのかあ……あちゃーと思った。
こんなものを書くことに、なんの意味があるのかと怒りを感じた。
彼女はこの本を書いて、幸せになったか。
わたしは彼女の人生が、決して幸せだとは思わない。
彼女が誰にも見せるためではなく、自分のために書き上げた1巻は、まだよかった。彼女が「書く」という行為をおこなうことによって、彼女が彼女自身を理解する助けにもなったし、
読者や自閉症関係者にとって、そうした内的世界を持った人間がいるというという意味でも、方々の国で翻訳、出版されたというのは、彼女、読者、双方にとってとても意義があることだと思った。
だけど、2巻、3巻にいくにつれ、
わたしは彼女は1巻でやめておけばいいと思うような歯がゆさと怒りを感じながら読むようになった。
彼女は、そのままでいけばよかったのになあと思った。だけど、「世の中」はそれだけじゃ許さなかった。1巻で表現したような「自分の世界」を大切にする生き方を、世の中的な絶対的価値観である「成長」への期待を彼女に暗に託すことによって、壊そうとした。
自分の世界を大事にすることと、自分の世界を壊して成長することとは、まったくちがうのに。
1巻が世界の何カ国語にも翻訳出版されたことで、日本でもそれを原作にしたテレビドラマ「君が教えてくれたこと」が放映されたりして、ちょっとしたブームになったのは、わたしも覚えている。中学生か高校生くらいの頃だったか。
あれから、彼女のもとには世界中の読者や関係者から手紙が寄せられたり、講演の依頼を受けたりして、自閉症への理解に彼女はライフワークとして尽力するようになっていった。
彼女だからこそ、同じ自閉症の人たちを「同士」などと呼び、また自閉症関係者にたいしても必死で期待に応えようとした。だけどわたしには、それによって、彼女は彼女だけの世界を失って、身を滅ぼしていく行為のように思えてならなかった。あれだけ鋭い目で周囲の思惑を観察できていたにもかかわらず。
彼女はそれらを、自分の中だけの世界から、殻をつきやぶって、「世の中」に出る行為だと表現もしていた。
それは、この山から、知らないあの山に飛び立つようなことだとも、たしか言っていた。
だけど、わたしは彼女があえて「あの山」に行く必要なんてあったのだろうかとも思う。
仮にわたしが彼女だとして(彼女は昨年、病気をほったらかしにしたために亡くなった)、
もし2度目に生き直すことができたとしたら、
「この山」にいる自らを破壊して、「あの山」に飛び立つのではなくて、
自分の世界を大切にしながら、あの山ともうまくやっていきたいなあと思うだろう。
わたしにとって「自閉症だったわたしへ」は、「自閉症」というものにとらわれすぎて、
自閉症である「わたし」や「自我」にとらわれたまま生きてしまった結果、
人はこんなふうな哀れな末路をたどることを、
ドナが身を削ってわれわれに示してくれた本として、
とても価値がある、そういう意義がある本だと思う。
最近よく聞かれるようになった「発達障害」というものが、なにが障害かといえば、
こんなふうに仕事上、迷惑がかかる人で、こんなふうな配慮が必要ですみたいに「外から目線」では言われているけれど、
ドナと同じ当事者のわたしからしてみれば、これほどまでに、「わたし」や「自我」にいつまでもとらわれ続けている点で、異常というか、人とはちがって、そこが病だと思っている。
こんなふうな表現で言われているテキストをわたしは一度も見たことないし、
そんなふうに病院で扱われた事例もきいたことないけれど……。
ただ、「自分」というものに、これでもかというくらいしつこくとらわれている、あえてどこが普通の人とちがうかと聞かれれば、そこにつきる。
それ以外は、ごくごく普通の人間だと思う。
「自閉症だったわたしへ」の1巻は、そんななかで、ドナの「内から目線」を書いた美しい物語だったのに、
2巻、3巻といくにつて、「世界でも珍しいまさに当事者から語られた本」みたいにすばらしいもの扱いされてしまったがために、
彼女は「当事者」としてあまりにも当事者目線を必要としている人にこたえすぎてしまったように思う。
そこのバランスが分からなくなってしまったのは、彼女が「わたし」にとらわれる病であるゆえの弱点のようにわたしには映った。
2巻、3巻にいくにつれ、彼女は「世の中」ととけこんで果敢にチャレンジしていく展開にはなっていってるけれど、
それとは裏腹に文章はもう、彼女の世界にどんどんこもっていって、
これは「自閉症の世界」というよりかは、「彼女の世界」であって、
彼女が「自分の世界」から「世の中」を目指そうとするほど矛盾して、
ますますそれは自分の世界にこもっていることになって、世の中と隔絶される結果になるという悲劇だともいえる。
1巻のように、自閉症であってもなくても、琴線にふれるような彼女の言葉を、もうだれも理解することができなくなってしまうなんて、なんて皮肉なんだと思う。
彼女はただ、自閉症であろうがなかろうが、「最果てを見たい」と願う人と重なる思いを持っていたのだと思う。
最果てを見たいとねがえば、その最果てにたどり着きそうになると、また別の最果てが見たくなる、そういう人生を送りたかっただけなのではないかと思う。
本当に彼女のことを、自閉症の当事者としてではなく、一人の人間としてみてくれる人がいたならば、もっと人生をトータルで見られたのではないかと思えてならない。
「自閉症だったわたしへ」の3巻は主にイアンという青年との結婚生活について書かれているけれど、結局最後は別れる。
エピローグで彼女は「お互いが別々の道に進んでしまった」というような記述をしていたけれど、わたしは人の言う、「別れた」とか「わたしたち」という言葉は、信用しない。
とくに、自閉症だと自己を表現する人のそういう言葉は信じない。だって、そういう自分の世界をもって生きている人なんだもの。最後まで交わりあうことなんてない。それでも、一緒にいたい、分かち合いたいと思うからチャレンジするわけであって、
失敗したのならそれは事実だけど、「わたしたち」は「別れた」とか、なに甘美なパウダーシュガーをまぶしちゃってるの?それを双方向ゆえの結論だと思っちゃってるとしたら、世の中ではそれを、傲慢と言う。
「初めから彼とは別々の人だった」と彼女は最後にそう気づいたと言っているけれど、
そうだよ、もともと別々の人だったし、
あなたが会う人会う人「自分と似ている」と勝手に重ねていると思っているにすぎなかったよね。
自閉症であるないに限らず、人は究極的には、誰かと本当の意味で交わり合うなんてことはできない。「わたしたち」になんてなれない。
そういう、人として生きることの切なさ、絶望をかみしめる人間が彼女のそばに一人でもいたら、彼女はこんなに自閉症や自我にとらわれることなく、もっと普通に生きられたのではと思えてならない。
わたしは当時の主治医から「あなたの見えている世界や感性にそっくりな人がいる」とこの本を勧められたとき、自閉症の当事者でない人というのは、知らないがゆえに、あまりに神聖視していることに危機感も覚えていた。そんな美化に自分自身もひたって、埋もれてしまうのではと抵抗はあったが、1冊の本としてこの本と向き合うことにした。
自分とたしかにそっくりで似ていた。だけど、これは、わたしではなくて、彼女が書いた本だ。
さらに、これは、自閉症であることとは一切関係なく、ただただ彼女の世界だ、と当事者のわたしは思った。
先日、彼女はいまどうしてるのかなあとふと気になってググってみたら、昨年くらいにドナ・ウィリアムズは亡くなったという海外の訃報記事を見つけた。
出版当時は日本でも話題にもなったのに、訃報を日本のメディアで取り上げた社はどこにもなかったように思う。
ドナは50数歳という若さで亡くなったように記憶している。
晩年は、体がボロボロになってしまったそうだ。そりゃそうだろと思ったけれど。新しいパートナーの献身的な介護のもと、亡くなっていったとか。
わたしは「自閉症だったわたしへ」を読みながら、自閉症であることや自我にとらわれるよりも、自分の体をネグレクトせずに大事にすることのほうが、
自分が自閉症だからこんなにネグレクトしてしまうという「理解」を周囲に求めて、感覚過敏や鈍麻について書いてる時間よりも、ずっとずっと大切だと思った。
その、本当かどうかわからない風の便りのような訃報記事を読みながら、
わたしは、彼女は、ほんとうに最後の最後まで、
自分にとらわれたまま死んでいった人だったのだなと思った。
もったいないなと思った。おいおいと心の底で悔やんだ。まるで自分のことであったかのように。
あれだけ世界各国でもてはやされた「自閉症だったわたしへ」とは裏腹に、
ひっそりと彼女がこの世を去っていったことに気にかけた人は、どれだけいるだろうか。
クイーンのフレディ・マーキュリーが亡くなったとき、うろ覚えだけど、Y新聞では、海外の人だというのにベタ記事ではなくて段を立ててたような。
メディアの扱う訃報記事は、いい意味でも悪い意味でも、その人の価値ともいえる。
価値がない死なんてないし、命に大きいも小さいもないけれど、
でも、そんな価値がない価値観のためにがんばった結果、そんな価値の扱いを最後に受けたことを彼女が知ったら、彼女は自分の人生をどう思うだろう。それでもその道を歩んでいただろうか。結果的に同じようなぼろぼろな体になったとしても。彼女に聞きたい。
わたしにとって「自閉症だったわたしへ」は、彼女が「わたし」にとらわれたまま生きた結果、こんなふうに人はなるということを身をもって示してくれた作品だといえる。身をもって、彼女は「世の中」の犠牲になってくれた人だとわたしは思う。だからあの作品を読んだ人が、二度と「世の中」なんかの犠牲にならないように、
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