【随筆】富士の名は -1-
「富士山」は、いうまでもなく日本で一番高い山の名前である。だが、このように漢字で表されたとき、「ふじさん」と読むのか、あるいは「ふじやま」と読むべきなのか、ふと悩んでしまう。もちろんそれは、多くの場合どちらでもよいことなのだろうが。
漢字についても、必ずしも昔から「富士」ではなかったようである。奈良時代の『常陸国風土記』では「福慈(ふじ)」と表記されているそうであり、実はこれが日本最古の記録なのだという。この時代の漢字は、音をあらわすかな文字としての使用方法も多かったことを考えると、漢字そのもののもつ意味は案外重要ではないのかもしれないが、それにしても「富士」と「福慈」ではずいぶん印象が違うものだ。
他にも由来は様々で、不老不死の秘薬を焼いた山として「不死山」とされたとか、その際に武士が大勢登ったので「富む士」から「富士」になったとか、二つとない山であることから「不二山」ともいわれたとか、とにかくさまざまな表記や由来を経て、現在一般的であるところの「富士山」に落ち着いたようである。
唱歌にも「ふじは にっぽんいちのやま」と歌われているように、たしかに富士山は日本の山の中でも唯一の存在とみなされているように思われる。それは単に標高が日本一高いということを越えた、特別な「にっぽんいち」なのだろう。余談ではあるが、台湾が日本国統治下にあったときの日本最高峰は、台湾の玉山であった。しかし当時の日本人は、この山を「新富士」とは呼ばず、「新高山(にいたかやま)」と呼んだ、そのことはやはり、富士の特別さがその高さだけによるものではないということの、たしかな証左と言えそうである。
と、ここまで富士山について語ってきて何だが、私は本物の富士山をこれまでほとんどまともに見たことがない。子どものころ、新幹線の窓から遠くにかすむ折れ線を、なんとなく眺めた気がするような、そんなかすかな記憶がある程度である。富士山と聞くと「いつか、一度は登頂してみたい」などと思う人も多いようなのだが、私自身これまでそんなふうに思ったことは一度もない。申し訳ない話、私にとっての「富士山」は、写真か絵のそれなのである。
富士山が、ふたつとない山「不二山」と呼ばれるほど、それは日本人にとって特別な存在なのだとして、いやむしろ特別視されればされるほど、この山は日本のシンボルとして、汎用化され記号化されていくような気がしてくる。ふたつとない特別な山は、それゆえにありふれた記号と化していく。ニッポンのシンボルとしての、ニッポンイチのフジヤマ、マウントフジ ワンダフル。
つまるところ、多くの人がありがたがって特別視しているのは、今現在日本最高峰であるところのあの富士山のことではなく、象徴化され記号化された、こんな私でももう飽きるほど見てきたような、絵や写真に見る、シンボルとしてのフジヤマなのではないだろうか。それこそかのいう「風呂屋のペンキ画、芝居の書割」である。―――「不二」の名が泣いていまいか。