名言4.「銀河英雄伝説」/ヤン・ウェンリーやっぱり好きなんですよねぇ。
皆さんこんにちは(o^^o)
堀さんです。
前の続きです。
↑↑ よかったら読んでみてね。
続きなので、あらすじとかは端折らせていただきます。
悪しからず。
さて、今回も私が勝手に拾い上げたヤン・ウェンリーの「考えさせられる」名言を紹介し、自分の考えを並行して書いていきます。
今回は名言の数が多いので、
「人間関係編」と「国防/政治編」に分けました。
では始めます。
人間関係編
銀河英雄伝説(以下、銀英伝)の物語には、既得権益に甘んじる人がたくさん出てきます。そういう人はいつしか横暴になり、やらなくてもいい戦争を煽ったり、勝てる見込みのない戦争を継続したりします。国民は重税を強いられ、男は戦争に駆り出され、苦しくてもみんなも苦しいからと、本当は「嫌」なのにその声を押し殺しています。
そういった人が上にいた場合、黙って耐えているだけでは事態は改善しない、とヤンは言います。誰かがその人の責任を糾弾して、その行動を止めさせなければならないのです。
いじめっ子は、誰かが問い詰めない限り、いじめを止めないのと似ていますね。
以下は、幼児と権力者は同じようなものであるとするヤンの言葉。
「言うべきことを言う」のが大事なのはよく分かりました。
しかし、それが大変なことであるのは言うまでもありません。必ずと言っていいほど権力者とそれを守ろうとする人々からの攻撃に遭います。
銀英伝では、婚約者を戦争で失ったジェシカ・エドワーズという女性が反戦運動を始めます。しかし、権力側が軍隊や右翼の人々を引き連れてあり得ないくらいの弾圧を加えるのです。軍はこのとき"武力を伴う弾圧"のことを"正常化"と呼んでいます。また筆者は、この騒動の最中に弾圧側の幹部であるクリスチアン大佐がジェシカら反戦運動家たちに放った言葉が忘れられません。
それは、
ジェシカは、軍隊とは違い暴力を伴わない平和的なデモで政権に声を届けようとしますが、頭に血が上った反対派に殺されてしまうのです。
この一連のストーリーから分かることは、「権力に反対を表明すると大きな難題に直面する」ということです。しかし、ヤンの言葉と合わせると「誰かがそれをやらないと権力はどんどん増長してしまう」のです。
ここで筆者は心がむにゃむにゃしてしまいます。頭で分かっても、"怖さ"という感情が先行してしまう今の筆者には難しいと感じてしまいます。
現実社会でも、イスラエルとハマスの戦争、ロシアとウクライナの戦争、コロナのときのマクスとワクチンの事実上の強制、マイナンバーと銀行口座の紐付けなどに反対を表明している人を見るにつけ、筆者は凄いなと思います。
これも真理を突いているなと感じました。
高いポストにいる人が、めんどくさい仕事を部下に押し付ける際に使う言葉だと思います。または、部下を試すという意味合いで使う人もいるかもしれません。
ほとんどの部下は、上司のお眼鏡にかなったと思い、文字通り「プライドをくすぐられて」嬉々として受け入れると思います。
しかし、ヤンは一歩立ち止まるのです。
「そう言って、自分の手に余る仕事をさせて、失敗しても助けてくれないよね」と。
筆者はこれと同類の言葉に、「君に期待しているよ」と、「私も君くらいの年齢のときにはこれくらい出来たよ」はあると思っています。
同じ言葉を投げかけられたら、よく考えて進退を決めたいですね。
おっしゃる通りだと思います。
最近、石破茂氏がテレビで「あらゆる可能性に対して検討していきたい」と仰っていましたが、本当にあらゆる可能性に検討を加えてたらいつまで経っても会議が終わらないでしょう。あれは国民に向けた「決まり文句」みたいなものですね。あのように言わざる負えないのだと思います。
筆者の個人的な話をすると、アルバイトのレジ締め作業で、どれだけ注意深くレジ担当をやったところで、たまに-10円とかの差異は出るわけですね。またどれだけ丁寧に接客をしてもやっぱり不機嫌な人はいるわけですし。こちらが完璧な注意力を持ってどうこうしようとしても、外部からの別の事象によって簡単に裏切られることがあるんですね。
だから肩の力を抜いて、「所詮そんなもん」と見切っていたほうが気楽だと思います。
これはヤンの被保護者であるユリアン・ミンツに語った言葉です。
筆者はこれを戒めの言葉だと思っています。昨今、日本が衰退の道を歩んでいるからなのか、相対的にスピリチュアルや占いの人気が上昇しているように思えます。スピリチュアルや占いを勉強するのは自由なので文句はないのですが、一部の人は「死後の世界」について声高に主張し、かつ周囲の人に説法している節があると思っています。
死んだら君は〜になる、死後の世界は〜だ、というわけです。
しかし、ちょっと立ち止まって考えてみると、言ってる本人は「死んでない」場合がほとんどだと思います。正直に言いますが、筆者は死者から死後の世界を教えられたことはありません。亡くなった曾祖母は、棺の中から何も話しませんでした。
ここが重要だと思っています。
死後の世界論はどれだけ解釈が進もうが、臨死体験者が増えようが、常に一歩下がった視点で付き合うのが良いのだと思います。
ヤンはそれを教えてくれていると考えます。
筆者は以前、「バシャール」と「日月神示」というスピリチュアルの分野に置かれる2つのタイトルを読んだことがあるのですが、斬新で面白かったです。良い言葉(考え方)がたくさん書いてあったのを覚えています。
もちろん、押し付ける気はございません。
国防/政治編
これはヤンが同盟の査問会に行く途中に書こうとしてた「国家論」の一節です。ヤン自身はきっと「国家論」なんて堅苦しく呼ばれるより、単に妄想としてくれたほうが喜んでくれそうですが。
さて、ここで重要だと思われるのは太字で表した「国家を守りたいという意志が国家を滅亡させる」という箇所でしょう。
彼は国防とは「国を守りたい」という意志から来ているといいます。日本の防衛もきっと同じでしょう。国を守りたいから防衛費の増強に「YES」と答える。
しかし、こちらが軍備に力を入れ、莫大な資金を投じるということは、相手国も同じ状況になることだと彼は言います。そしてついには、国家同士の軍拡競争のようなものになっていき、どちらも軍備偏重の社会に変化していきます。
軍備偏重の社会というと、私が真っ先に思い浮かぶのは、第二次世界大戦の日本ですね。言い換えると、統制と管理の社会です。自由な発言はすべてNG。国家を批判することも、戦争を批判することもできない。私は、現在の防衛費の増強は、ある段階から国民の思想統制に使われるのではないかと考えています。きっとそうなったらnoteなんか真っ先に閉鎖されそうですね。
コロナのときも、マスクやワクチンでファシズム(国家による統制)が顔を出しましたが、戦争はまったくレベルが違うと思ってます。私が歴史の本を読む限り、戦争は差し迫った脅威という意味では、有無を言わせない感があります。
ちょっと話が逸れてしまいましたが、当初は単に「国を守りたい」と思っていただけなのに、気づいたら自分たちの首が絞められていて、自由なんか一切なく、後戻りが出来ないという状態です。ヤンはこれを「国家が崩壊した状況」といいます。
こうなるとどちらかの国家が死ぬまで戦争をするわけです。
故に、国を守りたいという意思から出発し、国民の自由が消えて国が崩壊するというゴールに行き着くのです。
しかし、ヤンの名言はこれで終わりません。
「国家論」とは別の箇所ですが、戦争の背後に控え甘い汁を吸う資本家の話をするのです。
次の言葉です。
私はこれを読んで、軍事力や防衛力の増強には、国民の軍事的ハードウェアへの信仰が重要なのだと考えました。
たしかに軍事的ハードウェアはカッコいいですよね。私も戦車のミリオタだったので信仰したくなる気持ちはわかります。そして軍事的ハードウェアの性能が良ければ、きっと防衛力も上がるだろうという論理ですね。実際上がるのでしょうが、性能が上がるということは防衛費も上がることを意味しています。
しかし、ヤンはハードウェア信仰をする前にやるべきことがあると言います。それは、「政治、外交の努力で戦争を常に回避するように努めること」です。これは国民の仕事というよりも政治家の仕事ですね。
政治家がそのように頑張ってくれれば、ハードウェアをそこまで信仰する必要がないと彼は言いたいのでしょう。
でも現実世界は違くて、ハードウェアを作っている連中、戦争産業に出資している連中、戦争が継続することで自身の立場を維持できるステークホルダーの政治家などによって、「自国の土地や市民の多くが失われても首都だけは(自分たちだけは)生き残る」という資本家の思想に戦争は終始していると言っているのではないでしょうか。
以前の記事にも載せましたが、自由惑星同盟の元首で戦争賛美の最強政治家トリューニヒトについて、ヤンがどう思っているのか再掲します。
クーデターを戦争に変えると分かりやすいかもしれません。
このトリューニヒトという政治家は「自分の考え」というものが無いように描かれます。常に自身の背後にいる地球教というカルトの資産として動くんですね。
カルトの諜報力で世論の動向を事前に察知して、自分が権力の上位に登り詰めることしか考えないのです。その意味では、同じ党派の政治家すら平気な顔で蹴落とします。
ジェシカが軍の記念式典で面と向かって、「あなたの家族はいま、どこにいます?」と問いかけるシーンは名シーンだと思いますが、彼女のあの言葉も彼にはまったく刺さらないんですね。
日本では、ワクチン接種被害者の会の人を、当時ワクチン大臣を務めていた河野太郎氏が有無を言わせずブロックし対話を拒否したのを思い出します。私はそのとき日本版トリューニヒトだなと思いました。きっと彼は被害者の人、否、接種した人すら見ていないのだと思います。また、政権の背後にカルトがいるという話も統一教会と被って笑ってしまいました。日本=自由惑星同盟なんじゃないかって。
さて、銀英伝のトリューニヒトの話に戻ります。
トリューニヒトが率いる自由惑星同盟の閣僚にはトリューニヒト派の議員が多数います。皆んな事あるごとにトリューニヒトに相談しに(お伺いを立てに)行くのです。
「今回の件で私はどのように振る舞えばいいですか?」と。
もう最悪ですね。自由惑星同盟の民主共和政は腐っているんですね。そのトリューニヒト派の一人、ドゥメックという政治家が立体メディア(テレビ)を通して同盟国の国民に演説するシーンがあります。
そして、それに対する、さらりとしたヤンのツッコミが勉強になるので紹介します。
まずドゥメックの言葉。
これを聞いたヤンのツッコミ。
かなり切り込んでますね。ヤンは政治家の矛盾した主張、戦争賛美の流れに一石どころか十石くらい投じている気がします。たしかに"増税"が下がることはないですね。政治家がどれだけ綺麗な言葉で演説したとしても負担するのは私たち、という構図は覚えておいて損はないでしょう。
筆者が以前読んだ本に、「ぼくらの戦争なんだぜ(高橋源一郎著)」という新書があります。その中では、政治家というのは、民族や歴史や伝統などの"大きな言葉"を使ってくるという旨が書いてありました。反対に、個人の体験などの"小さな言葉"はほとんど言及されないと言ってます。なぜなら小さな言葉には、国民を動かす力がないからです。そう考えると、ドゥメックも大きな言葉しか使ってないですね。
また、もう一つ。
自由惑星同盟の査問会にて、ヤンを問い詰めた国立自治中央大学(同盟国の最高学府)の校長であるオリベイラの言葉とヤンの返答を紹介します。これもまた面白い。
オリベイラの言葉。
ヤンの返答。
オリベイラ校長は、戦争というものを一種の公共事業と捉えているように思います。国内の問題が立ち行かなくなったり、自分たちの地位が危うくなったら、その問題の責任を銀河帝国という「敵」にすり替えるのです。国民に銀河帝国がどれだけ卑劣で恥知らずかを大々的に説き、メディアを使って国民の敵愾心を煽る。そして戦争こそが人間を鍛え、精神的にも肉体的にも向上させるという考えに帰結させるのです。
しかし、ヤンは一笑するだけです。
ヤンが言うには、そのような説に賛同する人は、戦争に参加したことがなく、肉親を失ったことがない人だというのです。ましてや、戦争から多大な利益を貪り、国民がたくさん死ぬことで利益を受ける立場の人には魅力的に映る考えだと言います。そして、そういう人に限って、祖国愛なんてものを信じてもいないのに叫ぶんだと。
筆者が、オリベイラの言葉を読んで考えたことは、日本の戦争を経験された世代がどんどん少なくなっていることです。戦後、日本は一応の平和を保ってきました。これは素晴らしいことだと思います。
しかし、彼らがいなくなるということは、生々しい経験をされた方々がいなくなるということです。そうすると、簡単にオリベイラ校長みたいな思考に誘導されてしまうんじゃないかと危惧します。以前、養老孟司さんが「脳化社会」というものを論じていました。それがどういうものかというと、「現代人は自分で動いて検証することを止め、ネット内の情報だけで世の中がどういうものかを構築するという社会ないし現象」です。脳化社会が進むことは、国民に何を見せて何を見せないかを司る情報の権力者にとっては都合の良い状態だと筆者は考えます。
最後に、「平和」というものについてヤンがどのように考えているのかを引用して締めたいと思います。かなり有名な言葉なので読者の方も知っているかもしれません。
平和の遺産が、次の世代に上手く手渡されれば結果的に長期間の平和を維持できる。平和とはリレーのようなものなのかもしれない。バトンが落ちちゃったら人類は一から再出発。
ヤン・ウェンリーらしさが出ている名言である。
今回はここまでにします。
ヤンの名言はまだまだあるので、これからも暇を見つけて紹介していこうかと思います。
いや、次は銀河帝国側の名言にしようかな。
お楽しみに。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
追記 12/24
タイトルが堅苦しかったので変えました。