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ロシア小説『プラリネ』三話・パンシオン
透明な硝子の管の中に、赤い液体が満ちていく。
セルゲイの腕から、注射器で血を抜き取る家政婦頭のマリアの面持ちは、緊張している。
それとは逆に、血を採られる度、セルゲイは自らの一部がイリーナの糧となる実感を得て、いつも陶然となるのだ。
マリアは医学の心得もあり、セルゲイの腕のどの部分に注射針を挿入すれば安全に血液が得られるかを承知していた。採取された血液は、プラリネを覆うチョコレートに混入される。
一連の動作を終えたマリアはほっと息を吐き、セルゲイに向けて微笑んだ。
「もうよろしいですよ。セルゲイ坊ちゃま」
「うん」
セルゲイはシャツの袖を直しながら、通常の客人であれば知ることのないクロスカヤ家の厨房の、馴染んだ空気を吸った。微かに、トマトの匂いがする。
「ボルシチ?」
「よくお判りですね。それからグリバーミ(茸の壺焼き)と、シャシリク(肉の串焼き)、ウハー(魚スープ)もお出ししますよ。イリーナお嬢様もですが、セルゲイ坊ちゃまは精をつけなければなりませんし。お昼にはグルフィヤ様もお越しになりますので、それまでイリーナお嬢様とクワス(麦主体の微アルコール)を飲んでお待ちください。イリーナお嬢様にはプラリネが出来次第、お持ちいたします」
「うん。解ったよ」
掛けていた椅子から身軽に降りて、厨房を出て行くセルゲイの背中を、マリアはやや複雑な表情で見守った。
それから厨房のテーブルに置かれた空の注射器を振り返る。
鈍い金色の真鍮が透明の硝子と接合されている。
筒状の箇所に刻まれた目盛は、セルゲイのイリーナに対する献身の歳月を表すようだと思う。
セルゲイはイリーナの母方の従兄弟で、吸血鬼の血筋は微塵も入っていない。だが、何の因果かイリーナの欲する血に適合し、本人もまたそのことに喜んで奉仕している節さえある。
マリアにとってイリーナは大事な主筋の少女であったが、だからと言ってセルゲイの存在を疎かにして良いとは考えていなかった。今のままで良いのだろうか、とふと思う時があり、その度に仲睦まじい二人の様子を思い浮かべて、自分を納得させるのだった。
けれど、現状を看過すべきでないと厳しく考える者もいる。そしてグルフィヤはその筆頭であり、彼女の父が憲兵将校であるという事実が、マリアにいくばくかの恐れを抱かせていた。
客間でセルゲイとクワスを飲みながら、イリーナはこっそりセルゲイを盗み見る。
茶色の髪は緩く波打ち、同じ色の目は温かな光を宿している。クワスに入るアルコールが、そしてセルゲイへの想いが、イリーナの胸をとくとくと打つ。
客間にはイコン(イエスなどの聖像画)が掛けられ、華やかな布地のカーテンと共に訪問客の目を惹く役割を果たしている。
イリーナの胸にはセルゲイへの思慕と、それに比べると些細ではあるが恐れがあった。セルゲイはいつまで自分の傍にいてくれるだろう。彼が自分に尽くしてくれる理由は、自惚れでなければ察している。
しかし、先日、グルフィヤに指摘された通り、セルゲイが哀れではないとどうして断言出来るだろう。自分はセルゲイの、自分に対する好意を良いことに、生存の為に利用しているのだ。セルゲイはそうは考えていないだろうが、人の思いは解らない。いつ、もうイリーナに血を提供するなどごめんだと言い出しても不思議ではないのだ。
そしてイリーナにもクロスカヤ侯爵にも、そうなった場合、セルゲイに無理強いする権限も意志もない。イリーナは、セルゲイに代わる血の適合者を探すことになるだろう。そして幸いと言うべきか、相性はあるものの糧とする為だけであれば、血は誰のものでも良い。ただ、より甘美で芳しいと感じるのが適合者の血であるというだけなのだ。
やがてグルフィヤが来て、クロスカヤ侯爵夫妻が不在により、三人でマリアが腕をふるった昼食を味わうこととなった。並べられた銀食器の中にはプラリネが盛られたものが当然のようにイリーナの前にあった。グルフィヤはセルゲイのいる席では非常ににこやかに、愛想よく振る舞ったが、プラリネを一瞥した目に浮かんだ嫌悪をイリーナは見逃さなかった。きり、と胸が痛む。何より美味である筈のプラリネが、苦く感じさえしてしまう。
「セルゲイはパンシオン(男女共学の寄宿学校)に行かなくて良かったの?」
グルフィヤが何気なさを装いそんな話題を切り出したので、イリーナの胸は更に痛んだ。
イリーナに血を提供する為、セルゲイは個別の家庭教師に就き、学問を習得した。だが、知識を得ることと、同年代の学友たちの中で勉学に励むのとでは得られる経験の豊かさが違う。イリーナは、言わばセルゲイから貴重な青春を奪ったことをかねてより痛感しており、グルフィヤがパンシオンの話を出したことは、実際、イリーナとセルゲイにそのことを知らしめる為だった。
だが二人の少女の思惑とは異なり、セルゲイは声を立てて朗らかに笑い、首を横に振った。
「僕はこれで結構、人を選り好みするんだ。気が合うかどうか解らない連中と日常を、狭い宿舎の中で過ごすのには馴染めなかったと思うな。イリーナに助けられたよ」
「あらそう」
グルフィヤは肩透かしを喰った表情で、クワスを一口飲んで、怒ったようにグリバーミを見た。感情の持って行きどころを失くした彼女は、湯気の立つシチューを食べ、マリアの料理の腕前を堪能することになった。
イリーナはプラリネを齧る。甘い。
なぜかそれまでより、殊の外、プラリネを美味しいと感じた。泣きたいような気持ちは綺麗に霧散していた。
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