NiとFiが描く破壊と再生:『伝説巨神イデオン』と『エヴァンゲリオン旧劇場版』の哲学的対比

『伝説巨神イデオン』と『エヴァンゲリオン旧劇場版』(以下、旧劇エヴァ)は、アニメ史において「人類の業」「破壊と再生」を扱った代表的作品である。どちらも最終的に全滅的な結末に至るが、そこに至る過程や思想には大きな違いがある。
先に記事として書いた『イデオン』の「儀式としての破壊と再生」という解釈を基軸に、庵野秀明が『旧劇エヴァ』で示したカウンター的な回答を考察する。

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1. 『伝説巨神イデオン』儀式論:計画された儀式としての破壊と再生

先に書いた記事では『伝説巨神イデオン』を、「イデ」と呼ばれる集合意識体が知的生命体の業を清算し、新たな再生を促す儀式として物語を進行させたという視点で解釈した。この解釈を基にすると物語全体の構造とキャラクターの役割が再評価される。

1.1 イデオン儀式解釈の概要

イデは単なるエネルギー源ではなく知的生命体の集合意志として「計画的に物語を進行させた存在」として描かれる。この視点で見ると物語のすべてがイデの意図に基づく「儀式」として機能している。

物語開始以前からの準備

バッフ・クランの地球侵攻のきっかけとなった流星の雨(巨大隕石の落下)は、すべてイデが「両文明を対立させる」ために仕組んだものと解釈される。隕石はソロ星を起点とした特定の軌道で落下しており、これは儀式の準備段階として位置付けられる。

戦争の消耗とイデの調整

イデは両陣営の戦力をバランス調整しながら、業の蓄積を促進した。たとえば、バッフ・クランの重機動メカが圧倒的な力を見せる一方、イデオンが予測不能なエネルギーを放出してこれを打ち破るシーンが繰り返される。この不安定なエネルギーの発現は、イデが意図的に消耗戦を演出していることを示唆する。

1.2 フォルモッサ・シェリルの存在意義

フォルモッサ・シェリルは、イデの意図に最も近づいたキャラクターとして重要である。彼女の行動やセリフからは、彼女が「イデの真意に気づきかけた絶望的な存在」であることが読み取れる。
劇中、シェリルはイデに向かって「純粋な防衛本能に応えよ」と呼びかけるが、イデは何の反応も見せない。このシーンは、彼女がイデの「計画的冷徹さ」に気づきながら、それでも希望を見出そうとした姿勢を象徴する。しかし最終的に彼女は狂気に陥ったように見えながら命を落とすが、それは単なる狂気ではなく、「真実に気づいた故の絶望」と解釈できる。

1.3 コスモの行動の再解釈

ユウキ・コスモは、「イデに抗う」のではなく、「儀式に乗り、全力で役割を全うする」選択をしたキャラクターとして描かれる。

イデオンの拳での決着

最終決戦においてコスモはイデオンソードやミサイルではなくイデオンの拳でドバ総司令の乗艦バイラル・ジンのブリッジを破壊する。この行動は、「業の象徴であるドバ個人」に対する直接的な攻撃であり、イデの儀式を進行させる行動そのものだった。

2. 『旧劇エヴァ』:イデオン儀式論へのカウンターとしての内面的回答


庵野秀明が描いた『旧劇エヴァ』は、『イデオン』が描いた「全体の業を清算する儀式」に対し、「儀式を通した個の選択」を軸に据えたカウンター的な回答と見ることができる。

2.1 人類補完計画と個の選択

人類補完計画は、『イデオン』の儀式と似て、「全体の統一」を目的としていたが、物語の結末はシンジの個人的な選択によってそれが否定される。

最終的にシンジは補完計画という儀式を拒絶し、「孤独や苦しみを抱えながらも個として生きる」ことを選ぶ。この選択は、『イデオン』が提示した「全体の再生という儀式」に対する否定的な回答として位置づけられる。

2.2 庵野秀明のFi的アプローチ

庵野監督は、登場人物の内面世界を徹底的に掘り下げ、個の迷いやエゴを軸に物語を構築した。

旧劇エヴァのラストで、アスカに「気持ち悪い」と言われるシンジの姿は、個を受容しながらも、他者との関係に悩むエゴと孤独を象徴しているように思う。これは、イデのような全能的存在に委ねる儀式的構造を拒否し「個の視点」を肯定するFi的表現といえる。

また旧劇エヴァでは、多分に抽象的な映像が挿入される。これらは、シンジの内面的葛藤を直接的に描き出し、観客にその揺れや迷いを共有させる演出として機能していると考えられる。

3. 『イデオン』と『旧劇エヴァ』の対比


3.1 全体と個の視点
• 『イデオン』:儀式的に全体の業を清算し、俯瞰的な視点で再生を描く。
• 『旧劇エヴァ』:人類補完計画という儀式を個の内面に焦点を当て全体性を否定する選択を描く。

3.2 儀式と補完計画
• 『イデオン』:イデが計画的に業を清算し、新たな生命を生み出す。
• 『旧劇エヴァ』:人類補完計画という儀式が「全体統一」を目指すが、シンジの個人的選択により否定される。

4. 新劇場版エヴァンゲリオン:変化する終着点


この解釈に基づき旧劇エヴァを評価すると、庵野監督は『旧劇エヴァ』でFi的テーマを十分に描き切ったことになる。
そのため新劇場版では新たな方向性が模索された。その結果、制作は難航し、物語は迷走しながら異なる結末に向かうことになる。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、物語の最後でキャラクターたちが1人また1人と舞台から退場する姿が描かれる。
そして現実世界へ帰還し、アニメから実写への移行が描かれる。この演出は過去作の清算と「現実への帰結」を象徴しているのは割と一般的な解釈であろう。

5. イデオンからエヴァンゲリオンへのテーマ的変化

イデオンの儀式論では、儀式的な争いを通して人類の業を清算し、新たな生命体を再生するという「全体主義的な救済」が主軸であると解釈できる。
そのため個々の存在や感情は、儀式を成り立たせるための要素として扱われる。

エヴァンゲリオン旧劇場版の補完計画という儀式では、人類全体の統合を目指すが最終的にシンジの「個の選択」によって補完計画が拒絶される。
全体主義的な救済を否定し、個々の存在を尊重する結末へと変化。

儀式の解体と再構築
イデオンでは、儀式を完遂し再生へと向かうが、冷酷さと悲劇が強調されている。
エヴァンゲリオン旧劇場版では儀式そのものが拒絶され、「個」と「全体」の間で揺らぐ葛藤を描いている。

『伝説巨神イデオン』と『旧劇エヴァ』は、それぞれが「儀式的な破壊と再生」をテーマにしているが、アプローチの仕方が大きく異なる。
『イデオン』は、イデのエゴを持って計画的な儀式として、冷徹に業を清算し新たな再生を描いたNi的物語であると言える。
『旧劇エヴァ』:儀式に対するカウンターとして、人類補完計画という儀式の中でのシンジの個の迷いと選択を描き「全体性」の拒絶を示したFi的物語であると言える。

両者の比較からは、『イデオン』が全体を俯瞰的に描いた儀式的物語であるのに対し、『旧劇エヴァ』は人類補完計画という儀式を通して個の揺れや迷いを軸に置いた内面的物語であることが浮かび上がる。

まだまだ書ききれない部分はたくさんあるが、この辺にしておく。
この解釈で両作品を俯瞰的・対比的に見直してみると新たな発見があるかもしれない。

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