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コミュニケーションとは、違う色の空気の触れ合い。

海外に伝わる童話で「北風と太陽」という話がある。北風が旅人のコートを
脱がせるために、強風で吹き飛ばそうとすると、旅人は自分のコートを庇い、太陽が暖かい光で照らすと旅人は自分からコートを脱いだという話。
この話は本当によくできている。外から強制したり指示したりしても人は変われないけど、思いやりや愛を与えると人は満足して心を開く、ということだ。

太陽と旅人を思い、私もしみじみと暖かい気持ちになっていると、ふと高校時代に級友に、「智美って何考えているかわからない」と言われたことを思い出す。

本当に北風のような人で、マイペースで過ごす私に、いつも働きかけてきたり、ツッコミを入れたり、自己主張する人だった。
私に興味があったのかもしれないし、自分をわかってもらいたかったのかもしれない。何はともあれ、コミュニケーションが好きな(?)人だった。

でも彼らに、私が日頃見ている世界を伝えようとしたところで、伝わらないだろうな、と思う。わかる人なら、ツッコミ入れなくても、わかるだろうから。彼らは私を知って、どうするつもりだったのだろう。それが見えないと、私は自分の世界を教える気にならなかった。なぜなら私の見ているそれは私にとって神聖なものだったので、世俗的な快楽に溺れている人には到底わかりそうもないと思っていたから。

この世界には、いろいろな人がいる。今私は日本という穏やかで平和な国に住んでいるけど、地球の裏側の、全く違う文化を持った国のことを知りたいとは思わない。戦争ばかりしている国とか、貧困や飢えで何万人の死人が出ている国のことは、毎日のようにネットで流れてくるけれど、私たちとは違いすぎて、どう接していいかわからない。

それは多分、相手側もそう思っているだろう。彼らが感じいている日常、思いや感じていること、飢餓感や屈辱感などを、知って欲しいと切望しているだろう。だからこそ、安易に触れることに躊躇してしまう。

異文化に積極的に飛び込んで交流を深めようとする人は多分、彼らを知ることで自分を変えたい人なのだろう。繋がるということはある種の欲望と覚悟が必要なのだ。

私は人が面倒くさい。ツッコミ入れられると、普通にしていてはいけないような気がしてしまう。だから、人から働きかけられると、それを良し悪しで判断せず、違う色の空気が触れ合っているととらえるようにしている。

目を瞑って一分一秒の呼吸する間に、ほろ苦いブランデーの味を思い浮かべる人もいれば、爽やかな森の木々を想像する人もいる。欲望の飛び場所はそれぞれ違い、そこに良し悪しはないことを、頭でわかっていても、なかなか人はそうもいかない。人は本当は混ざり合いたいと切望するから。

高校時代の旧友に「何を考えているかわからない」と言われたのも、毎日ボーイフレンドの遊んで喧嘩している彼らが恋愛に何を求めているかわからなかった私は、自分が毎日癒されている海辺の夕日の話などしても退屈だろうと思っていたし、そういう人たちが敬意を見せない限りは大切な場所に土足ではいられたくないと思っていた。相手の中に欲を見るか心を見るかは判断の決め手になるかもしれない。



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