たちまち〜子どもたちの日常がつくる芦辺浦計画〜
たちまち 考えてみよう
たちまち 動いてみよう
たちまち 未来を信じてみよう
この言葉は、壱岐島、芦辺浦で暮らす、3組の夫婦が考え出した言葉だ。
たちまちとは、
広辞苑:非常に短い時間のうちに行われる様。すぐ。即刻。
壱岐:とりあえず。
以下、たちまちH P掲載文
芦辺浦をふらっと人がたち寄るまちに。人と人の交差点のような場にしたい…。
そんな想いで「たちまち」始めました。
子どもたちの生き生きとした日常はこのまちの財産。
そして子どもたちのことを考えることはこのまちの未来を考えること。
学校でも学童でも、家庭でもない子どもたちの居場所を、まちの人や子どもたちと一緒につくっていくこと。
一時的なイベントや指針などではなく、まちの日常をつくっていくこと。
子どもたちの新しい日常が芦辺浦を他のどこにもない魅力的なまちへと変えるでしょう。
たちまちでは、チリトリ自由食堂をはじめ、まちの空き家の改修、利活用をすすめてきた。
チリトリ自由食堂のお隣、たちまちのスペースでは、月曜日と金曜日の15時30分から
17時まで子どもたちに開放している。
子どもたちは、なんとなく好きに立ち寄ったり、本を読んだり、宿題をやったり、鬼ごっこをして帰ってきたり、友達のお誕生日会の打ち合わせをしたりする。
子供たちをみていて思うことは、子供の時間に、守るべき対象として、大人が介入しすぎるのは、ひとの恋路を邪魔するような野暮な行為なんだなということ。 偉大な冒険者のような子供時代。
子供たちは思うよりもたくましく、すこし窓を開けてあげるだけで、すこし風とうしをよくしてあげるだけで、気持ちよさそうに自分から遊び、楽しさを発見し、外に飛び出していくことができる。生き物なんだ。このまちに暮らしてそう思うようになった。
わたしは家族でもなく、学校の先生でもないなんかそこにいる、よその大人である。
でも大人であるので、偉大な冒険者としての子ども時代を過ごすまちの子どもたちをゆるーく見守らせてもらいながら、いっしょにすごしている。時にはまぜてもらって、偉大な冒険者だったときの自分を思い出させてもらったりしている。
芦辺浦を人がふらっと立ち寄る、
人と人の交差点のようなまちへ。
色々な楽しそうに生きている大人が、子どもたちの日常に、暮らしの中に、人生に登場することが、子どもたちのなにかになりますように。
依存と分断が無意識にすすむ時代の一方で、共感と共事のこころでじぶんたちの手の届く範囲で
暮らしをつくり、まちづくりをし、子どもたちに手渡す、する。
たちまち。
リスク回避が生み出す不自由さから自由を取り戻して。
信頼と。無邪気に信じてみるこころと一緒に
このまちに起こっていく楽しい日々を楽しんでいたい。
どこからでも誰もが。未来と人。
子供のように無邪気に信頼をしてみることからはじめて生み出されるおもしろさを。
たちまちね笑
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