分かりたい自我と、感じたい「わたし」。
現象(行動を含む)は「わたし」の意識が存在する間、常に創造され続けている。
その現象を五感を通して見て、感じる。それに伴って感情が創造される。
大きく分ければ「快」、「不快」、「無関心」。細かく分ければ、「喜び」「怒り」「悲しみ」「感動」等。
その根源的な「わたし」から創造された理由のない感情は、自我というフィルターを通して、理由が勝手に解釈され、それにあった都合のいい記憶が呼び起こされ、思考が創造される。
その思考に対して、また感情が創造される。「快」「不快」「無関心」。
その感情がまた、自我というフィルターを通して、理由が勝手に解釈され、思考が創造される。
自我のフィルターは基本的に、自責思考、他責思考であり、自分でも他人でもない全ての現象である「わたし」の目指す方向とは間違った方向に向かうフィルターなので、「快」を体験しようが、「不快」を体験しようがフィルターを通すたびに創造される思考は「不快」に向かっていく。
せっかく快を創造している「わたし」からすると、根本的に間違えた理由の思考はなんの意味もない役に立たない生ゴミなので、そんなことしてないで、五感を使って、快を感じてくださいと。不快な気分が起こり続ける。
不快な気分を感じ取った自我はまたしても不快な気分を思考で解釈して、間違った理由付けをして不快のループにハマってしまう。
なので、自我(思考)はこの世界で自分を認識するためにも、会話をするためにも、生活していくためにも必要であり、大切なもので悪いものではないが、基本的に「わたし」の創造に対して意味のない見当違いな間違いを繰り返してるだけなので感情の理由を考えて理解しようとしなくてもいい。
なんだか嫌な気分がしたらその場所(思考含む)から離れて、五感を無害な物の方向に向けるだけで十分であると言える。
ポジティブなものを見よう、考えようというのは思考の影響下にあるのでなるべく無害な五感というところが重要だと思う。
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