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多くの人が、「自分」だと思っているゾンビだ。

「私」が、している。

「私」が見ている、「私」がやっている。
「私」が頑張っている。「私」が寝ている。

そう思ってるあなたは誰だろうか、「私」は情報だ。
あなたは情報ではない。
あなたは人間ではない。
あなたは生命体ではない。

「私」がなにかしている時あなたは何も見ていない、感じていない。
その「私」という情報になっているただのゾンビだ。

あなたが見ている、聞いている時、食べている時、寝ている時、「私」はいない。

あなたは人間ではない。
「それ」だ。
「私」が「蝶」を見ている時、あなたは「私が蝶を見ている。」情報だ。あなたは存在しない。
あなたが「それ」を見ている時、あなたは「それ」だ。

オムライスを食べて、美味しいと思った時、あなたは何も食べていない。
「美味しいオムライスを食べた私。」という情報だ。
オムライスを食べている時、あなたはオムライスだ。その見た目であり、その味だ。
「オムライス」、「卵」であり「ご飯」だ。さらに言えばそれらも「情報」であり存在しない。
「言葉」にすればあなたは消える。
「私」が消えれば、あなたが現れる。

本当のあなたは「私」だろうか、
あなただろうか。

「私」が消えるのがあなたは怖い。
なぜなら「私」に没頭しているから。
「私」に没頭している時、あなたは消えている。どちらが恐ろしいだろうか。
私が消えたら周りの人は「あなたらしくないよ。」と言うだろう。
それでも周りの人が言う、「あなたらしい」は情報だ。
あなたは、あなたであって「あなた」という情報では無い。
「私」が消えない限り、あなたは情報だ。
「私」という情報通りに動かないと恐怖を感じるだろう。「私」が。
「私」があなたではないと気づかれるのが怖いからだ。

あなたは存在しない。そう聞くと虚無を感じるかもしれない。
「私」は生まれていまここにいる。
でも、あなたは生まれていない。
もし、「記憶」というものが本当に存在するとすれば、あなたの最初の記憶はきっと、「暗闇」か、「赤ちゃんの鳴き声」だったあなただろう。

「私」は自由を求めて旅をする。
しかし地球の反対側に行っても「私」に自由は来ない。
「私」そのものが束縛だから。

あなたはいつだって自由だ。「私」にもなれるし、「人間」にもなれるし、「生命体」にもなれるし、「無機物」にもなれる。「オムライス」にもなれるし、「意識」にもなれるし、「心」にもなれる。「夢」にもなれるし、「現実」にもなれる。
「悪」にもなれるし「善」にもなれる。

そもそもなれる、というのは少しおかしいかもしれない。
あなたは常にそれなんだ。

もし、今あなたが誰か、人を見ているとする。
その「その人」はあなただ。
「私」が見ている時とは違って見えるかもしれない。

あなたは「その人」の「言葉」であり、「身体」だ。

「その人」が、わたしになり、そこに現れるものが、「感想」、「返答」であり、「行為」がわたしだ。

「その人」に、あなたは行う「反応」になる。「無関心」であるかもしれないし、「好意」「愛情」「慈愛」「敵意」になる。

もしその反応に「私」が存在すればあなたはいなくなる。
「私」が助けた時、あなたは「この人を助けた私」だ。
「私」が傷つけた時、あなたは「この人を傷つけた私」だ。
わたしが助けたとき、あなたは「助けられた人」になる。
わたしが傷つけたとき、あなたは「傷つけられた人」になる。

好きなものを選べばいい。

どうせ、あなたは存在せず、あなたしか存在しない世界だ。

「この文章を書いた私」はいない。

この文章がわたしでありあなただ。

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