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33年間の人生を本気で振り返って、自分を発見する試み(最終更新:2024年8月)
こんにちは、コーチでセラピストのとみーです。
自分の好きや得意を浮き彫りにするために、全力で自分の歴史を振り返っていきます。この記事は何度もリライトして育てていくので、たまに開いていただくと内容が更新されていると思います。笑
自分史の前に、家族の話
父:自称人見知りで無口。地域密着型の自営業を千葉で30年以上営み、コロナが始まる少し前に引退。
母:料理上手で明るく、友達が多い。父の事業サポートをしながら家事も子育てもしていた。
長女:医療系専門職。新卒から同じ会社に勤め続けている。趣味が高じて一年留学するなど行動的。
次女:フリーランスデザイナー。アートやデザインが好きでお洒落。東京の奥地で自然に近い暮らし。
生まれてから幼稚園に入るまで
素直で正直な末っ子気質
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幼い頃は、物おじせず天真爛漫で、末っ子らしいわがままを存分に発揮していたようです。おしゃべりが好きで、夕方になるとキッチンで料理をする母に、その日にあった嬉しかったこと、嫌だったことなど、なんでも話していました。
むしゃくしゃしたときは壁を蹴ったり物を投げたりとアグレッシブに発散し(そしてさらに怒られていました)、良くも悪くも正直で素直な子供でした。隠し事は苦手で、気持ちはすぐ顔に出てしまい、秘密も話してしまうタイプだったようです。
好きなものはとことん。エブリデイにんじんライフ
外食はほとんどしない家だったので、毎日3食母の手料理を食べていました。大皿にたくさんのおかずが並び、お腹いっぱい食べる日々。
記憶が全くないのですが、これが好き!と思うと毎日必ず食べたい性分だったそう。にんじんブームが巻き起こった3歳の頃はほぼ1年間、毎日にんじんを1本以上食べていたそうです。あらゆる料理(おでんにも!)ににんじんが入っていないと機嫌を損ねる子どもだったらしいです。翌年はしめじブームだったとか。渋い。
現在の私はにんじんに特別な思い入れはありません。ただ、大学の頃にもうどんブームがきて、毎日1食〜多い時は3食すべてでうどんを食べていたし、最近も毎日のように鶏胸肉を茹でて食べているので、好きなものを食べ続ける癖はずっとあるみたいです。
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【習いごと】
心の支えになってくれたバレエ
3歳頃から、先に習い始めていた姉たちを追いかけてバレエの教室に通い始めました。
バレエは本当に楽しくて、今でも大好きです。音楽に合わせて踊ることも、身体を伸びやかに美しく使うことも、奥が深い。姿勢が良くなったり、怪我をしにくくなったり、実生活にも役立つことが多いです。
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小さい頃はただ毎週楽しく通っていただけですが、成長とともにバレエが心の支えになっていきました。
もちろん楽しいばかりではなくて、厳しい減量もあったし、レッスン中に「ビクビクするんじゃない!堂々としなさい!」と喝を入れられたこともあります。
それでも、生きることが辛い時期も、自分を愛してくれる人はどこにもいないのではと思うような日々でも、踊っている時は嫌なことを忘れられました。
同じ音楽でもピアノは苦手
バレエを始めた少し後から、ピアノを習い始めました。こちらも姉が先に習っていたもの。
バレエと反対にピアノは本当に苦手だった記憶が強いです。毎週の宿題練習が嫌いでほとんどやらずに、週に一度レッスンに行くだけ。母から練習しなさいと怒られても、先生から成長していませんねと言われても、練習をサボってばかりいました。
【幼稚園】
主体性爆発幼稚園
近所の保育園ではなく、隣の市の幼稚園へ通いました。この幼稚園は教育方針が一風変わっていて、主体性重視の教育方針でした。
ルールで縛らずに、必要な安全を確保した上でやりたいことはなんでもやってみる。子供は怪我をするもの。外で遊んでもいいし、お絵描きしてもいいし、仲直りはして欲しいけど喧嘩してもいい。親は子の主体性を過干渉で制限しないでくださいね、という幼稚園でした。
遠足も多く、毎月のように園バスで出掛けていた気がします。園長先生がいきなり「今から遠足にいこう!」と近所の大きな公園に遊びに連れて行ってくれたこともありました。筑波山での登山とお泊まりや、サンシャイン水族館や上野科学博物館に九十九里浜など、千葉県八千代市からは結構距離があるところも、普通の遠足では行かないようなところにも行きました。
特に、上野の科学博物館では、班ごとに別れて子どもだけで館内を巡る時間があったりと、園児を信頼して任せてくれる部分が多くありました。
その中で、私はクラスのリーダーとは言わないまでも、引っ込み思案感はゼロで、おしゃべりが大好き、やりたいことをどんどん主張するような子だったように思います。
幼馴染Sちゃんと遊ぶ日々
近所で唯一同じ幼稚園だったSちゃんとは、幼稚園からの帰宅後に毎日遊んでいました。
外で遊ぶ時は家の前の石壁を登ったり、小さな赤い虫を延々眺めたり。家の中で遊ぶ時は、お人形遊びやブロック遊びなど、いろんな遊びをしていました。
当時の私は、Sちゃんのことを見下していました。彼女は人見知りで声も小さい一方で、私は自分の気持ちをはっきり声に出して伝えられる。だから私のほうが、彼女よりもえらい。私が遊んであげているんだ、と思っていたんです。まったくもってそんなことないのに。というかそんな私と遊んでくれてありがとうSちゃん…。
恥を忍んで告白しますが、相手を見下したい、バカにされたくないという強い気持ちを本当に手放せませんでした。反対に、自分が勝てないと思うような人に会うと必要以上にへりくだって卑屈になってしまうことも。私が抱えてきた人間関係の悩みは、これが大きな原因だと思います。
悪癖に気付いていても、無意識に起動してしまう。笑顔で押し込めていたけど、隠しきれていなかったことでしょう。やっと手放せたように感じるのは本当に最近(2024年6月くらい)で、コーチングを受け始めたことで認知が切り替わったおかげです。
【小学校前半戦】
主体性爆発幼稚園から、自主性重視の小学校へ。
幼稚園を卒園し、地元の公立小学校に進学しました。Sちゃんも同じ小学校に入りましたが、クラスが離れたので、クラスに知り合いはゼロでした。そこから、人見知りせずにどんどん話しかけてお友達を作りました。
小学校は幼稚園と違って、時間割や席順など、ルールが多く、好きな時におしゃべりもできない。主体性を引き出す幼稚園と自主性を育む小学校は大きなギャップがありました。最初こそ戸惑ったものの、小学校はそういうものなのだ、と思って頑張って馴染んでいきました。
直せなかった“声の大きさ”
何度も怒られて、それでも直せなかったのが“声が大きいこと”でした。
あるときまでは「大きな声で物おじせずに話せて偉いね」と言われていたのに、いつの頃からか「声が大きい」と怒られるようになりました。
たとえばショッピングセンターの中や、映画館など。小さい声で話し始めても、気持ちが昂ると声も大きくなって、何度も怒られました。
なんとか直せたのは小学校の高学年になってからでしょうか。それも、直せたというよりは人間不信になってために自信を持って話せなくなったという方が正しかったかも。
簡単すぎる授業に飽きる生意気なこども
本が大好きでたくさん読んでいたからか、6年間通して学校の授業はとても簡単でした。授業を聞いていたらテストは90点を切らないし、わからないと言っているクラスメイトの気持ちの方がよっぽどわからないとずっと思っていました。
4月に教科書が配られると、国語や道徳の教科書は読書用の本として数日で読み終えていました。授業中も暇だったので先のほうまで読み進めて、問題も解いてしまっていたので、時間を持て余していました。
理解は早かった一方で、ケアレスミスがすごく多かったです。テストではばーっと答案を書いて、見直しせずに提出するので、計算ミスや問題文の見落としで点を下げていました。何度か繰り返すうちに「見直しをしなければ」と思うものの、問題を解き終えると集中力が途切れてしまうため、見直しをしても気づかないのです。
そこから、回答を終えたら一度頭のリセットのために寝て、起きてから見直しをするようにしました。この癖づけをしてからはケアレスミスは減ったものの、テスト中に机に突っ伏して寝ていたので先生からは注意されました。
授業でもどんどん発言したい!
多くの授業が挙手制で進みますが、クラスメイトは学年が上がるにつれて授業で手を上げなくなっていきました。わたしは先生に褒められたいし、目立ちたいと思っていたから、変わらず挙手し続けていました。みんなが授業で発言したくないのはどうしてだろう?なんで黙ってるの?って本気で思っていました。
今思い返してもやっぱり授業で手を挙げない理由がわかりません。
私は運動神経が悪いのだ、という呪い
今でこそ運動は好きですが、小学校から30歳くらいまでずっと自分は運動音痴だと思っていました。
その原体験は、小学校1年生の持久走大会で最下位だったこと。800mほどの距離なのに、ものすごく息切れして、しんどくて、最下位。
バレエやダンスやスキーはできるし、短距離走ではリレーの選手に選ばれたこともあったのに、最下位の記憶が鮮烈すぎて、ものすごく恥ずかしくて、わたしは運動音痴なんだ、と思い込んでしまったようです。
比較検討に時間がかかる
買うものを吟味する癖が子供の頃からあります。
たとえば、月刊まんが雑誌を500円券で買うとき。本誌が400円くらいだったので、残りのお金をどう使うのか、毎月発売日の数日前から本気で悩み、ものすごい時間をかけてお菓子棚をチェックして組み合わせを決めていました。
最終的に満足度の高いお菓子の組み合わせを見つけてからは、買うものが固定になったのですが、それでも毎月のお菓子選びは漫画本体以上に気合が入る時間でした。
大人になった今でも、ホテル選びのときには複数サイトを見比べて、何時間もかけて諸条件を比較してしまうし、洋服を買う時はフロア内のショップを全部見て、気になるものはすべて試着してから購入する服を選びます。
かけた時間と満足度が比例しないという自覚はあるものの、やめられない癖のひとつです。
【小学校後半戦】
人生で一番しんどかった時期が、この頃。
目立ちたい、場の中心にいたい。そんな欲求が変わらず強くあり、そして出る杭として打たれ始めた時期です。
ひとりぼっちになり、トイレの住人になる
ルールを守ることを当然と思い、人にも強要する、押しの強い子どもだったので、4年生くらいからクラス内で疎まれ始めました。本格的にいじめで孤独になったのは6年生の頃です。クラスの目立つ女の子に嫌われたことが直接のきっかけでした。
数人でグループを作るときは、誰も誘ってくれない。入れてと声をかけても渋い顔をされて、1人のまま。いじめを先生に相談して、グループを作る時に先生が「ひとりの人がいる限りダメです」と言ってくれたときだけ渋々どこかのグループに引き取られる、そんな状態でした。
ひとりぼっちが辛くて、聞こえるように話される陰口をい聞きたくなくて、授業を休むようになりました。学校に行きたくないと親に行っても認められず、保健室に行っても仮病だろうと休ませてもらえなかったので、気持ち悪いとかお腹痛いとか理由をつけて、トイレでサボるようになりました。
1時間まるまるトイレの個室にこもって、吐こうとしても吐けなくて、泣いたりぼーっとしたり時間を潰していました。だんだんとそれがいつもの過ごし方のようになって、1日に数時間、トイレにいました。
孤独を読書で埋める
孤独が増すごとに読書量がどんどん増えました。毎週図書館に通って10冊本を借りてきては読破する日々でした。本の世界に没入することで時間をやり過ごしていたので、1日1冊以上読んでいました。
主に読んでいたのはファンタジー小説で、母と趣味が重なっていたので、お互いに本を読んで感想をシェアし合ったり、選書しておすすめし合ったりしていました。近所の図書館のファンタジーはあらかた読み終えて、隣の図書館まで足を伸ばしていました。
外国人作家の児童虐待小説や、薬物中毒の人の手記なども読み漁っていました。内容を理解していたというよりはネガティブなエネルギーに共鳴していた感覚だったように思います。
読書が好きなのに、読み終えた直後にもう中身をまったく覚えていないことがよくあるのですが、その癖はこの頃ついたものかもしれません。時間をやり過ごすために活字を追って没頭していたんでしょうか。
死にたいけど死ねなかった小6の冬
読書に逃げても、毎日の辛さは減らないどころか、増えるばかりでした。
この頃の私は日常が辛すぎて感情を殺していたので、まったく笑顔を作れず、常に無表情でした。誰にも愛されない、味方はいない。そう思い込んでしまい、自殺の方法をあれこれ考えて、自殺未遂までいきました。うまくいかなかったので、今も生きているんですが。
そのときに「死ねないなら、どんなにつらくても生きるしかない」って思いました。以来、どれだけ辛いと思ってもこの時期よりはマシだと思うことでなんとか生きてこられました。一方で、もうあれほどに辛い思いをしたくない、という思いが自分に対するブレーキになってしまっている気もします。
【中学校】
もう一度人生をやり直す。
中学では知らない人も増えるし、いじめもなくなって楽になる、と希望を抱いて、地元の中学に進学しました。とはいえ、クラスの半分程度は知り合いでした。
新しい友達もできたし、人と話せるようになりました。でも、染み込んだ暗さは急に払拭できないし、そもそもどんな自分で振る舞えば良いかの目標設定もなかったので、やっぱり友達作りは苦戦した記憶があります。人の顔色を窺って、機嫌を損ねないように行動していました。
姉への憧れから吹奏楽部に入部
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部活は吹奏楽部を選びました。
私は小さい頃から、1番身近な年上である次女にものすごく憧れていました。4歳年上の姉が吹奏楽部だったので、わたしも吹奏楽部を選択。1年以上自分を押し殺していたので、やりたいことや好きなものがわからなくて自分の意思で選べなかった側面もあるかもしれません。
姉の真似で入った吹奏楽部でしたが、楽器の練習や合奏など、部活はいつも楽しかったです。大会の非日常の雰囲気も、普段の練習も、クラスとはまた違う空気感でした。
中学のときに遊びに行った記憶は、吹奏楽部の同期とのものばかりです。ディズニーランドに行ったり、映画を見に行ったりも。もちろん人間関係の悩みは尽きなかったものの、関わる時間が長い分ご縁の深まり方も強いんでしょうね。
好き嫌いは思いこみ、と感じた悪戯を自白します
中1の頃、小学校から私のことを嫌っている男子と、他の中学校の生徒を装ってメル友になったことがあります。ほとんど怪しまれもせず、すぐに打ち解けて何ヶ月か毎日メールのやりとりをしていました。
やりとりの中で唯一出てきた個人名が私でした。「今日は嫌いな奴に話しかけられてまじうざかった!学年一のブスで牛!」って、悪口でした。あなた、その本人とメールのやりとりをしていますけど。
彼が私のことを嫌っていることは知っていたし、このこと自体がショックだったわけではありません。ただ、彼が嫌っているのも、今メールのやりとりをしているのもどちらも私なのに、彼はそれに気付かない。
ちゃんと向き合って話したらこの人とも仲良くなれる可能性があるんだな、私のこと嫌いな人たちの何人かは、みんなが嫌っているからという理由で私を悪いフィルターで見ていたり、噂や場の雰囲気で嫌っているんだな、と思いました。
テスト勉強はゲーム
中学になって、学校の勉強内容は少し難しくなりました。だからこそ、学期末テストに向けての勉強がすごく楽しかったです。小学校のつまらないテストとは違い、勉強しないと点数が下がることが嬉しいし、効率よくテスト勉強の予定を組むことも大好きだったから。
予定通りに進んだら嬉しくてやる気がさらに出たし、予定通り進まなくてギリギリになっても、じゃあどこで挽回しよう?と考えていたので、それすらもゲームのようで面白かった。
中学でも成績は良い方だったけれど、相変わらずケアレスミスも多くて、トップはとても取れず。クラスの上位数名に入るくらいの成績でした。
ドキドキのクラス替え
進級時にクラス替えがあり、メンバーが大幅に変わりました。2,3年のクラスでは1年生のときよりも仲の良い子ができた一方で、主張の強いリーダー格の子がいたり、1年の時よりもスクールカーストのようなものも感じました。
ギャルっぽい可愛い子は男女ともに友達が多くて先生とも仲が良かったし、気の強い美人タイプの子は周囲から一目置かれていました。私は太っていて卑屈でコミュニケーション下手で、友達は多少できたけれどクラスの中心にはなれなくて、彼女たちのことが羨ましかったです。ただこの頃には、無駄に目立つといじめられるという刷り込みがあったので、自分は壁の花がちょうどいいんだくらいに思っていました。
一生デブのままだと自分に呪いをかけた
中学2年のはじめ頃、太っているだけで悪口を言われるし、自分でも嫌気がさしていたので、バレエの発表会に向けて、本気で減量を始めました。
給食はカロリー表を見ながらあれこれ避けて、200kcal以下に抑える。家での食事も母がカロリーを工夫して作ってくれていました。結果として、2ヶ月で5kgほどの減量に成功。クラスメイトも面白がって応援してくれていたので、アトラクション感覚で取り組んでいました。
でも、発表会が終わってからの1ヶ月で8kgリバウンドしたんです。減量のストレスが強くて、終わった途端に食べまくってしまいました。結果として、痩せるために行った減量で、むしろデブを強化してしまいました。
無理したからこんな結果になった。どうせ失敗するから、もう2度と減量しないぞ、と自分に呪いをかけました。恐ろしいことに、この呪いは20年近く残りました。30歳を越えて、恋人に「痩せるか別れるか、選んで」と追い詰められて初めて、ちゃんと痩せる方向に舵取りができたのです。
受験勉強、初めての塾
高校受験が近付き、塾へ通い始めました。生徒の大半が行く集団塾ではなく、個別指導の塾です。同じ中学で同じ塾の子達は、クラスが違っても、今まで特に仲良くなくても、連帯感が生まれて仲良くなれました。
優秀でいたいという願望が強かったので、難易度の高い教材をあてがわれると内心ほくそ笑み、普通ランクの教材を渡されると焦りました。
人生初の受験勉強はやり方がよくわからず、言われるがままに塾の教材を勉強していました。第一志望・第二志望ともに不合格。受験勉強で言われたことはこなしていましたが、自分に必要な勉強方法や志望校に合わせた内容まで気をまわせず、適当な勉強をしてしまっていました。受験本番で試験内容がまったくわからずに「失敗」を自覚しました。
でも、夏休みに毎日塾に集まってみんなで勉強したりおしゃべりする時間はめちゃくちゃ楽しかったです。卒業後に集まったり連絡を取ったりもしていないけれど、在学中は奇妙な連帯感がありました。
【高校】
父に認められた道が正しいという思い込みと、精神的な自立
第三志望だった高校へ入学しました。高校・大学受験どちらも、わたしは父の意向に沿うことを当たり前に基準のひとつにしていました。
父が「いいと思う」と言ってくれたら私の選択は大丈夫だと思っていたんです。服を買う時も母が「似合う」と言ってくれたものを選んだし、進路にしろ生活にしろ、自分のことは自分以上に親が理解しているものだ、親の意見が正しいのだ、と思っていたんです。
入学した高校も、仏教系で中高一貫だし学校の雰囲気も良さそう。下り電車だから空いているだろう、と言われていたのですが、実際は空港に向かう電車のためいつの時間もそこそこ混んでおり、学校に向かうときはほとんど座れませんでした。でも、両親の考えが必ずしも正しいわけではない、と気付いたのは25歳くらい。それまでは両親の教えに従えない自分はダメな娘なんだ、親の意見やコミュニケーションの取り方は正しいんだと、盲目的に思い込んでいました。
まったく未経験の弓道部に入部
高校でなんの部活に入るかは全く決めていなかった時に、中学の同級生が弓道部の見学にいくと言うので、私も一緒に見学に行き、あまり深く考えずに入部しました。
入ってみると、弓道部は校内で1番上下関係に厳しい部活でした。先生のことは神だと思え、先輩より高い位置から声をかけるな、そもそも先輩には用がある時以外話しかけるな、という厳格なルールの中で、365日中350日くらいを部活に費やしました。
弓道が向いていた
バレエで身につけた型をコピーして再現するという能力が役立ち、入部直後から成績は上々でした。2年生になってすぐの頃に、大会に向けた選考記録会では先輩を抜いて、ときどき1位、落ちても3位をキープし続けました。
その結果、3人での団体戦メンバーに2年生で唯一選ばれることになり、県大会では個人優勝、関東大会では団体戦で3位になりました。
インターハイを目指す5人での団体戦も、2年生で唯一メンバー入り。インターハイ出場は叶いませんでしたが、国体選手にも選ばれました。
一生ものの友人ができた
部活での活躍がきっかけで、他校の同級生に一生物の友人ができました。千葉県から関東大会に出場した他の2校が、たまたま3年生2人に2年生ひとり、といううちと同じ組み合わせだったのです。3校は顧問同士も親しく、大会のときのホテルも一緒だったので、関東大会をきっかけに一気に打ち解けました。
わたしの学校が先輩に雑談で話しかけてはいけなかったので、同じ高校の人と居ても1人だけ後輩のわたしは誰とも話せません。他校のメンバーに混ざって話すことで緊張を和らげていました。
それ以降、高校時代は毎月集合して遊んでいたし、大人になった今でも泊まりがけで遊ぶなど、定期的に連絡を取り合う大切な友人となりました。
2年の9月に退部
大会でそれなりに良い成績も収め、部内では向かうところ敵なし状態になった結果、調子に乗ってしまいました。
そして夏合宿のときに同期たちから仲間外れにされ、インターネット上の日記で悪口を書かれたのです。小中の苦い記憶が一瞬で蘇りました。ここでも孤独になるのかと。
書かれている内容は、わたしが悪いところもあったけれど、彼女たちの誤解と思い込みによるものも多かったです。でも、直接コミュニケーションをとって不満を伝えるのではなく、web上で悪口を書くという形をとった彼女たちと、今後も同じ空間にはいられないと思いました。わたしは彼女たちの顔色を伺い続けてしまうだろうと。
ショックだったし、それに合わせて弓道の成績も不安定になりました。メンタルの状態が著しく影響するんです。先生に事情を話し、退部することにしました。顧問の先生にはものすごく引き留められましたが、国体が終わってすぐに退部しました。
インターハイには出られなかったけれど、大きな大会にも出たし個人でも成績を少しは出せたから、十分満足だ、と思いました。ただ父から「お前は嫌なことから逃げたんだな」と言われたのは苦く記憶に残っています。
初めての彼氏にズブズブに依存する
高2の秋、部活を辞めるのとほとんど同じタイミングで生まれて初めて彼氏ができました。文化祭準備の中で意気投合し、1週間でお付き合い開始。
初めての彼氏に全力で浮かれて、毎日一緒に登下校し、休み時間もおしゃべりして、とても仲が良かったのですが、どんどん彼への愛情が膨らんだ結果、半年で「重すぎる」と振られました。
いじめの経験もあり、自己肯定感の低さと承認欲求にまみれていたんでしょうね…。相手を尊重することなど到底できず、自分の欲求を押し付けてばかりでした。半年も付き合ってくれた彼に心から感謝しています。彼のおかげで、その後も「わたしのことを好いてくれる人は地球上に1人以上はいる」、と思えたし、自己愛が強く自己肯定感がものすごく低かったわたしの卑屈さが少し解消されたり、つらいときも心の支えになっていました。
修学旅行でシドニーへ。計画通りに行動できないとイライラする
4泊5日でオーストラリアのシドニーにいきました。クラス全体でのバス移動が多かったものの、1日だけ友人たちとの自由行動の日がありました。
事前に行き先や時間を調べ、スケジュールを立てての自由行動。友人たちは、その場で見るもの聞くものに興味を惹かれてなかなか前に進まず「決めた予定は守らないといけない」と思い込んでいた私は心底イライラしていたしそれを彼女たちにぶつけてしまいました。ほんとにごめんねと今更思います。
予定のスケジュールよりもその場で感じたことの方が鮮烈で大切だし、どこかで遅れても後で調整したら巻き返せると今なら思えますが、当時はひとつ狂ったらその後も狂い続けると思っていたし、融通のきかない性格でした。
だからこそ頼りにしてもらえていた面もあります。現地では地図を頼りに移動するのですが、事前情報のインプットと地図を照らし合わせて、目的地に向かうことが得意でした。
一緒に移動していた友人たちは現在地も目的地もわかっていない状態だったので、彼女たちが行きたい場所に連れて行くガイドのような立ち回りをしていました。
高3、本気で受験勉強に打ち込む
高校3年生になりました。部活もやめているし、恋人にも振られていたので「暇なぶん全力で受験勉強をする」と決めました。振り返ると高校生活は全力部活→全力恋愛→全力受験、という感じで案外充実していました。それぞれに未練は残っていましたが。笑
そして真面目に勉強をしてみると、得意科目はぐんぐん成績が伸びるものの苦手科目はさっぱり伸び悩みます。明らかに理系科目が苦手だったので、国立大学は早々に諦めて文系私立に絞り、関東圏の私立大学の偏差値が高いところ、という基準で早慶上智を、さらに点の取りやすい政治経済で受験できる早稲田だけを選んで受験することに決めました。
学部は、私らしく選ぶなら文学部か教育学部。でもひねくれていた私は、らしくないものを選びたい、偏差値が高いほうが格好いいと思い、商学部を選びました。なお、この選択は人生の中でもトップレベルの後悔です。大金を払う選択なのに、見栄のために興味のない方向に進むのは本当に愚策でした。
「わたし、浪人生じゃありません」
高校受験の反省を生かし、大学受験では志望校対策に本気で取り組みました。誰かに言われたメニューではなく、自分で自分のためにプログラムを組みます。
受講クラスは真剣に吟味して選んだし、自習室に1日こもって勉強して、飽きたら現役大学生のチューターと雑談して大学生の空気を浴び、リフレッシュしていました。アーカイブ動画での受講の方が安い&何度も講義を見返せることからライブ講義と動画講義も併せて活用していました。
高3の3学期は登校不要だったので、予備校に通う毎日です。タスクを決めてこなし、気分転換もたっぷりする日々。成績も順調に伸びて、案外ストレスも少なかったように思います。弓道も受験勉強も、同じことを繰り返して深めていくことが好きなようです。
受験当日は緊張したけれど、幸いなことに受験した大学は全部合格しました。念願の早稲田大学商学部へ入学します。この頃は自分って頭いい!と思っていたなぁ。
合格報告をしにチューターのところに行ったら「2浪にならなくて良かったね!」と言われたのもいい思い出。「浪人生じゃありません!現役です!」って言ったらものすごくびっくりされました。
【大学】
念願の1人暮らし!
合格後に急いで家を探し、大学から徒歩10分のアパートで1人暮らしを開始しました。3/31に入居して4/1に入学式という強行スケジュール。引越しの荷造りも荷解きもほとんど母がやってくれて、おんぶに抱っこで一人暮らしを開始しました。
1人暮らしは自由で気楽だけど、失敗も多かったです。ペットボトルや缶のゴミを何ヶ月も溜め込んでしまったり、洗剤が合わなくて肌荒れしたり、部屋の片付けが苦手で、タンスに荷物を積み上げて大きい布で隠したり。
キラキラした理想の暮らしとは程遠かったけれど、それでも1人暮らしは最高でした。親の目がないところで、好きなものを食べて、好きな服を着て生きる。誰にも怒られない自由を初めて味わいました。
私服に困り、主張したい自己の無さを自覚する
高校とは違い、大学生は毎日私服です。都会だし、周りの子がみんなおしゃれな子ばかりに見えてくる不思議。周りの目が気になるので、ダサいと思われたくないし、毎日同じ服を着るわけにもいかない。
じゃあ私はどんな服を着たい?何が似合うんだろう?と考え始めました。実家暮らしの時は母のアドバイスありきで服を選んでいたので、自分だけで選んでこなかったのです。自分らしい服ってなんだろう?と迷いながら、安い服をたくさん買って、いろんなテイストの服を着てみる日々でした。
モノトーンの服も、エスニックな服も、ふわっとしたガーリーな服も着たし、友人にも相談していましたが、いまいちしっくり来ないままでした。私は表現したい自己がないんだな、とうっすらと自覚します。
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ここから10年以上模索しました。特に20代の頃は体型を隠してくれて周囲から浮かない、無難な服を選んでいました。
ファッションコンサルを受けたり、自分らしさを模索しながら30代になり、今のわたしが服装について思うのは、TPOに合わせた上で、これを着たい!というワクワクした気持ちを大切にすべきということ。
目立たないように、を基準にありふれた服を着ていると、本来の個性が埋もれてしまうから。自分のマインドにぴったりくる服を選びたいなと思っています。今日と明日でテイストが違ったってなんの問題もありません。
大学生、勉強しなくなる
学部の授業は面白いものもあったけれど、そもそも商学部の授業に興味を持てませんでした。入学早々に、文学部に入ればよかったと後悔します。とはいえ、受験し直すほどの熱意もなかったのですが。
なるべく単位が取りやすい授業を選び、怒られない先生のときは寝たり携帯をいじって過ごす。今振り返ると学びに対して最低な学生でした。大学で何を学んだかまったく思い出せません。真面目に授業を受けようと思っても、すぐにぼんやりしてしまってわからなくなり、テスト前になんとか詰め込むことを繰り返していました。
単位は落とさなかったものの、最初のテスト期間での成績は惨憺たるもの。高校までの賢い私という思い込みは早々に外れ、適当に単位を取って卒業しようという甘ったれ大学生が出来上がりました。
サークル活動
ストリートダンスサークルへ
次女への憧れが相変わらず根強くあり、中学に引き続きここでも姉に倣ってダンスサークルに入りました。ジャンルも、姉と同じLockへ。シスコンだな、わたし。
コレオグラファーがやりたい!
サークル内ではいろんなイベントがあって、それぞれでショーを作ります。
振り付け、衣装選び、音の編集などなど役割があるのだけど、私は振りを作ることが大好きでした。音に合う動きや、舞台映えする構成を考えることがとっても楽しかった。
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脳内イメージを実現するために、メンバーへの要求が厳しくなりすぎて嫌な思いをさせてしまったこともあります。実力に見合わない構成にしてしまって却下されたことも。
でも、この振りかっこいいねって言われたらすごく嬉しかったし、振りを考えている期間は四六時中脳内で音楽が鳴り響いていました。
ダンスバトルは苦手
ダンスショーケースは好きだったけど、ダンスバトルはめちゃくちゃ苦手でした。DJが流す音楽に合わせてひとりずつ即興でダンスをして、上手い方が勝つというダンスバトル。
知っている曲でも知らない曲でも、その場で自分が感じたことを表現することができなくて。頭で考えていたら間に合わないけど、頭で考えないとダサい動きになっちゃうから、恥をかきたくなくて身動きが取れなかったことを覚えています。
音に合わせて自由に踊れる人たちが心底羨ましかったな。
やっぱり悩みは人間関係
大学時代は1番長く時間を過ごしたのがサークルで、その次がゼミでした。サークルは、同学年だけで入学時に70人ほど、卒業時でも40人ほどいたので、大学内でも特に大きなコミュニティのひとつ。
相変わらず人付き合いが本当に下手でした。長くバレエをやってきたことから、経験者っぽい雰囲気で学年の中心グループのようなところにいたのですが、ノリが良い風を装っても、うまく話せなかったり、見栄が邪魔してカッコ悪い自分を曝け出せなかったりしました。自分の欠点を自分で認められずに隠そうとして、いわゆる”こじらせ”ていたんだと思います。
とはいえ、友達もいたし楽しい思い出もたくさんあります。
大学から近い家だったので、友人が泊まりにきて朝まで話したり、先輩後輩も交えて家で鍋をつついたりしていました。青春でした。
ただ、サークル内での恋愛や結婚がめちゃくちゃ多かったのですが、大学時代に一度も恋は実らず恋愛ムーブは起こせませんでした。笑
シドニーでのホームステイ
大学2年の春休みには、オーストラリアのシドニーに行き、4週間ホームステイしながら語学学校に通いました。
ホストファミリーはとっても優しくて明るくて、素敵な人たちでした。でも、私が失敗が怖くて全然話しかけられなくて、積極的にコミュニケーションできなかったことが悔しかったです。小学生以下の子どもが3人いる家庭だったので、わたしが話すよりも子どもたちが話したいよな?と余計な気を回してしまった(というかそれを言い訳に逃げてしまった)のが敗因です。
語学学校は、春休み期間だったので日本人が多くいました。休憩時間や放課後に外国人と英語話せばいいのに、つい楽をして日本人と日本語でつるんでしまったのも、もったいなかったです。
ただ、良い経験にはなりました。1人で国外に出る経験も初めてだったし、道に迷っても言葉が通じなくても自分でなんとかするしかないから。
国民性の違いについて初めて肌で感じる機会になりました。韓国人男性は愛情表現がストレートで強めだなとか、タイ人は明るくて人懐っこいなとか、ブラジル人は文法めちゃめちゃで語彙力も乏しいのにエネルギッシュでコミュニケーションに能動的だなとか。
国際貿易研究ゼミに入る
大学3年生からのゼミ選びでは、国際貿易研究ゼミへ入りました。
毎年海外研修があったり、先生の授業が面白かったりと人気のゼミ。倍率が5倍くらいあったのですが、先生と事前に仲良くなっていたのでするっと合格しました。
考えは人によって違う、を初めて実感した
大学3年生の途中で、ゼミ生が2人辞めました。1人は「学びについていけない」、もう1人は「この先生を信頼できない」というような理由でした。
残ったメンバーでゼミ生の家に集まって、それぞれの想いを話そうって言われたとき、私は、みんな2人がやめて寂しいだろうと思っていたのですが、実際に意見を聞いてみると、それぞれ全然違うことを考えていて驚きました。
このときまで、私は出来事に対する感情は概ね皆同じだと思い込んでいたんです。今までにも意見が合わない人もいたし、いじめに合ったこともあるのに、仲間が抜けたらみんな寂しいでしょって思い込んでいました。
インプットとアウトプットの間にあるマインドの使い方は人によって全然違う、ということを実感した出来事で、価値観は人によって違う、を初めて理解しました。我ながら遅いし、今でもこの想像力が働かなくて失敗してしまうことがあります。
小学生のときも周りの人の気持ちがまったく理解できなかったし、ゼミ生との話し合いでも意見が全く違っていて驚いたし、わたしは人の気持ちを想像する力が低いのかも、とこの棚卸しをしていて気付きました。
10代後半から、人間関係の構築をテーマにコミュニケーションを学びまくっていたので、その原点の苦手意識を忘れていたようです。
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就職活動=暗黒時代
やりたいことがわからない
大学3年生、周りが就活の空気になると同時に就活を開始しました。とはいえ、大学の学びも適当で、サークルばかりに打ち込み、悩みといえば人間関係。飲食のアルバイトは楽しいけど一生の仕事にしたいとは思えない。将来やりたいことがまったくなく、なにが向いているかもわからず、とりあえずいろんな業種の企業説明会に行ってみる日々の始まりでした。
説明会や選考で大手に行ってもベンチャーに行っても、社会科見学の気分が抜けず、どこも楽しそうと思えてしまい、なにも絞れずにエントリーシートを提出していました。志望動機も曖昧、自己PRも借りてきた言葉のようなエントリーシート。よくあれで選考進めてくださってたな…と思います。
受けた企業ほぼ全てから内定をもらう同期、進みたい業種が明確で心なしか表情も凛々しくなった同期を横目に、選考は進むものの内定はひとつもいただけない、就活迷子の沼にはまりこみました。
両親とのコミュニケーションエラー
両親との関わりも大きく影響しました。好きな企業に行きなさいと言われる一方で、親としてこの業種は認めない、と言われる業界がいくつもあるのです。
それでも、人生の選択において親の方が自分よりも正しいという思い込みがまだまだ根強くあったので、親のNGが出た業界は諦めて、別業界の大手を受けていました。OK業界の大手企業の最終面接の朝に「あなたは本当にその企業にいきたいの?」と聞かれて、いや私が行きたい業界は反対されたから親がOKした業界の選考を受けてるんですけど!?と困惑したり、就活がうまくいかないと相談したら「お前を欲しがる企業なんてどこにもないだろ」と言われたり。
親とのコミュニケーションエラーで、わずかばかりの自己信頼も崩れ、誰にも心を開けない、誰に何を相談して、どう打開したら良いかわからないという第二の暗黒期が訪れました。
やりたいことを見つけたものの猛反対される
就活迷子ながらも自己分析を進めた結果、接客業がやりたい、特にマッサージやボディケアがやりたい、と思いました。
学生時代のアルバイトはすべて接客業であったこと。小さい時からマッサージをすることが好きで、家族やクラスメイトの肩揉みをしていたこと。自分もエステが好きでよく行っていて、施術を受けた後は気分よく過ごせていたことなどから、商学部の人が一般的に就職して行く業界よりもボディケアの領域に強い関心があると思いました。
試しにエステやストレッチの業界を受けてみると、すべてから内定をいただけました。ただ、父からは「整体やエステの業界への就職は許さない」と猛反対を受けます。
この頃はまだ盲目的に親の意見が正しい、私が間違っているのかも、と思っていたので、仕方なく就活を再開したものの、それ以外の業界でエントリーしても内定が出ず、メンタルがどんどんぼろぼろになっていきます。誰に会っても愚痴しか話せないような状態で、大学卒業が目前に迫ってきてしまいました。
心配した母が、年末に1人暮らしの家に会いに来てくれました。私の就活の考え方、父への不信感、やりたいことをやれと言いながらやりたいことをやらせてもらえない親への不満、果ては小学校のときにいじめられていた私を助けてくれなかった親への恨みなど、泣きながら全部をぶちまけました。母も泣きながら、母の行動の意図や私に対する思いなどを打ち明けてくれて、就活がうまくいかなければ就職浪人しても良いとも話してくれました。このとき初めて、心から母に愛されていると信じられたように思います。
OBOGと話して自分の世界の狭さに気付く
同じ頃、知り合いの卒業生から学部友達を紹介してもらいました。
大手通信会社に就職したけれどパニック障害になって退職した人、就職せずにいきなりフリーランスライターになった人、会社員兼DJ、大手飲料メーカーの会社員など、就活中の私のイメージの外側の人達でした。
この先輩たちと仲良くなって、実際の社会人の暮らしを見せてもらう中で、視野がとても狭くなっていたことに気付きました。好きなものを突き詰めてもいいし、会社でうまくいかなくても、就活が思った通りに進まなくても、人生は終わりじゃないと思えたんです。
進路決定は卒業ギリギリ
気持ちは少し楽になったものの、就活は相変わらずうまくいかず、ちょっと自暴自棄にもなりかけていました。そんなときに父から「そんなにマッサージがしたいなら、理学療法士になればいい。それなら病院でも働けるし認めてもいい」と妥協案をもらいました。
そこから急遽方向転換して、理学療法士の専門学校を受験することになりました。学費が安い&実家から通いやすい学校を探して、4年生の3月半ばの最後の入試で合格。なんとか卒業後の進路が確定しました。
メンタルをこじらせつつ卒業。キラキラ同期と自己否定
卒論も提出し、卒業に必要な単位も取得できたので、なんとか卒業。卒業旅行ではサークルの同期とハワイへ。就活がうまくいった人たちはキラキラして見えて、自分は劣等感にまみれていて、こじらせ度合いが爆発していましたが、それもまた思い出と言い聞かせて楽しく旅行しました。
【専門学校】
就活時のいざこざから父との関係は最悪な状態のまま実家に戻り、気まずさを残しながらも専門学校に入学しました。自宅で、母とは話すけれど父とは会話をしないような状態でした。
優秀であれという呪縛からの脱却
入学当初は、早稲田卒なんだから専門学校レベルの勉強なんてできて当然。優秀でなければむしろ失格、そう思い込んで自分を追い詰めていました。
ですが、つまらない授業はやっぱり眠くなるし、テストで100点など取れません。
そこで途中から、国家資格を取るための学校だから、テストは合格点を取れたらOK、80点も100点も誤差だ、と思い直したところ、ものすごく気が楽になりました。赤点の再試はお金がかかるので、合格点は切らない、とだけ決めて3年間を過ごしました。無事に、3年間ペーパーテストも実技試験も落とさずにクリアできました。
学年で1クラスだったので3年間クラス替えはなし。高卒の子から社会人経験者、子持ちの方までいろんな人がいる中で、どの人ともそれなりに仲良く打ち解けて過ごせたように思います。
わたしと勉強のスタイルが似ている子がいたので、テスト勉強はその子とやることが多かったです。わたしがテストを一度も落とさずに3年間やりきれたのは彼女のおかげと言っても過言ではありません。
人間関係も楽になってきた
小学校から大学まで、ずっと人間関係で悩んできました。コミュニティに馴染もうとしても浮いてしまうとか、いじめられたり、親友だと思っていた人にいきなり嫌われたことも何度もあります。
コミュニケーション本や自己啓発本を山ほど読んだし、服装も話し方も工夫してきました。それで、頑張っても浮いてしまうなら、もう仕方ない。自分を受け入れてくれる人と、適度な距離感で付き合っていけばいい、とやっと思えるようになったのがこの頃です。
自分が知っている世界の中で浮いてしまっても、自分が馴染めるコミュニティもどこかにあるだろうし、自分を必要としてくれる人だっている。まるごと全部受け入れてもらえなくても、少しずつ所属していればいいんだと思うようになりました。
そう気持ちを切り替えられたのは、大学と専門学校で仲間の雰囲気がまったく異なっていたこと。大学までは年齢も属性もなんとなく似た人たちが集まりますが、専門学校はもっと雑多な構成です。世界はまだまだ広いし、日本以外に目を向けたら自分が伸び伸び生きられる環境も必ずあるだろうと、ようやく肩の力が抜けました。
本気でオタ活に打ち込む
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話は飛びますが、実は小学生のときからw-inds.が好きでした。CDを全て買い、毎日聞き込み、歌も踊りも覚えてしまうくらい。ただ、それがいじめのきっかけになった(クラスのリーダー格の子にw-inds.ファンになること真似するなと言われた)こともあって、ファンであることを隠して来ました。
大学4年生のとき、Twitterでファン友達ができました。w-inds.や他のアーティストのライブに一緒に行くようになったんです。
ライブやリリースイベントなど、スケジュールが許す限りすべてのイベントに行き、ライブ配信は友人宅で一緒に見て、Twitterでオタクアカウントを開設して推しの投稿をチェックする日々の始まりです。
推しに覚えてもらえて、ライブも楽しくて、SNSを通して友人が全国にできました。好きなもので繋がる縁ってすごい。
一方で、推しに合わせて半年先のスケジュールまで埋まり始め、ライブ代や遠征費用捻出のためにアルバイトをしながら専門学校に通う日々はなんだか余白がありません。
オタ活は楽しいけれど、自分に合ったレベル感を模索する必要がある、と1年ほど経って気づきました。
そこから、スケジュールを盲目的に埋めることをやめました。お金にも気持ちにもゆとりができたし、突発的な予定にも対応できるようになりました。
このときに仲良くなったオタク友達とは今でも友人関係が続いています。幅広い年代と職種の人たちと「好き」の共通点で仲良くなれたのは人生の大きな財産です。
GWと年末年始は家族で海外へ
わたしが大学生になって以降、両親が連休をとれるタイミングで海外旅行に行くようになりました。オーストラリアやカナダ、台湾など行き先はさまざま。行き始めた最初の頃は母が旅行会社に依頼して旅をアレンジしてくれていましたが、インターネットであれこれ調べて自力で行けることに気付いてからは、私がアレンジャーになりました。
フライトとホテルを手配し、家族それぞれの要望を聞きながら旅先でのスケジュールを決めていきます。ネットや本を見比べて情報収集をしながら、予算に合わせて最適なプランをたてることがとても楽しくて、何時間も飽きずにのめり込んでいました。全員の要望を加味しながら効率の良いプランを練ることがものすごく楽しかったのです。
ただ、「どこでもいいよ」は困りました。わたしのやりたいことや行きたい場所に行っても家族が楽しくないのは目に見えていたので、複数の選択肢を出して選んでもらうなど工夫しました。
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ただ、家族旅行は夏休みや正月休みのため、帰国後はすぐに大量のテストでした。旅行の荷物に教材を詰め込み、飛行機内や現地のホテルで勉強していました。もともと時間がたっぷりあるから勉強が捗るというタイプではなく、むしろ時間がないほうがぎゅっと集中して取り組めるのだと気付いたのがこの頃でした。
実習が開始
専門学校3年間のうち、最後の1年間は授業はわずかで、ほとんど実習とその準備でした。
合計3回の実習をすべて自宅から通いでこなす人もいますが、私は地方を希望してあちこちに住ませてもらいました。往復の新幹線や飛行機代と、レオパレスの家賃は学校が負担してくれるのです。短期間でいろんな地域の雰囲気を味わえて、土地の美味しいものを食べることで気分転換にもなってとても楽しかった!
連続した引越しのおかげで荷物の減らし方もわかったし、荷造り・荷解きも1人でできるようになりました。なにごとも練習あるのみですね。
実習1回目、地元近くの病院。
評価実習という、患者さんの状態を正確に把握するための実習で、期間は4週間。
総合病院の入院患者さんがメインでした。リハビリ部の職員は20人くらい。実習先の中で一番スタッフが多かったです。
高校のときにしみついた“目上の人にこちらから話しかけてはいけない”という慣習のせいか、リハビリ職員たちとどう関わっていけば良いのかわかりませんでした。
担当教官から最終日に「学習自体はなにも問題ないけど、以降の実習で担当が若いスタッフだった場合にちょっとトラブルが起こるかも」と言われました。詳細は教えていただけませんでしたが、まるで予言のように本当にトラブルになりました。
実習2回目、のびやかに学んだ広島。
臨床実習で行った広島の総合病院は、とてものんびりした雰囲気でした。リハビリスタッフは3人で、同時に実習に来ている人がわたし以外に2人。
1日のルーティンをさっと覚えて、課題で出された英語論文の和訳も楽しくクリアできました。
この病院では、患者さんとの関わり方、信頼関係の築き方を教えてもらいました。入院患者は病院への滞在というだけでストレスが溜まっていて、リハビリはその息抜きの役割も果たすんだとここで学びました。
「村上さんが帰っちゃったら困るなー」と先生方に言ってもらえるくらい患者とたくさん関わらせていただきました。
実習に最適な疾患の方がなかなかいなかったり、担当になった外国人の患者さんが院内喫煙で強制退院になったりと小さなトラブルはありましたが、和気藹々とした雰囲気で働けるイメージが湧いた実習でした。
実習3回目、教官に嫌われてメンタルを崩した茨城。
広島実習が楽しかったので、次も楽しいだろうと臨んだものの、担当の先生と仲良くなれず、開始3日で地獄と化したのが2回目の臨床実習でした。初回実習での予言はここで的中です。
ただ、失敗した理由は今でもわからないのです。
担当の先生に煙たがられる理由がわからなくてものすごく悩みました。課題を提出しても、「全然ダメ」と言われるだけで改善点がわからない。
患者のリハビリに入っても事前の情報共有がほとんどないまま遠くから見張られていて、私がなにかNG行動をすると飛んできて怒られます。どうしたら良いかわからないまま、先生の顔色を伺うばかり。失敗を恐れてどんどん萎縮していきました。
同時期にいたもう1人の学生はあんなに楽しそうなのに、どうして私はこんなにもしんどいんだろう?なにが正解なの?と悩む毎日でした。
親に相談し、専門学校の先生にも話して2週間ほどで実習中止になりました。担当者との相性や、体調不良など、様々な理由で実習が中止になる学生がいたけれど、その1人になったことで自分がとんでもない落ちこぼれのように感じ、自分を責めました。
ただ、意外なことに父が味方してくれたのです。「相性の合う・合わないはあるから。元美が悪いわけじゃない」と言ってくれて、驚いたし救われました。
実習4回目、優しさに救われた栃木。
臨床実習をクリアするために、追加の再実習で栃木に行きました。前回嫌われた理由がわからなかったので、初日は過去最高にオドオドしてたと思います。ところが、事前に担任から情報共有もあったのか、先生がとても優しかったです。質問に対して回答することが怖くて声が震えても、言語化に時間がかかっても、理解が浅くても根気強く付き合ってくれました。
総合病院ですが、こちらは外来患者がメインの病院です。スポーツをしている学生も来るし、高齢者も来る。入院患者は意識の混濁した終末期に近い患者が多く、どの患者も今まであまり接したことのないタイプだったので、毎日新鮮でした。
スタッフもベテラン〜若手まで幅広くいて、みなさん仲が良く、明るい雰囲気でした。ここで無事に実習に合格したので、少し遅れたものの国家試験の勉強期間に入りました。
国家試験の勉強
2ヶ月遅れて、クラスに合流しました。国試の勉強はグループに分かれて行います。
最初の頃はいつも一緒にテスト勉強していた子達と一緒のグループでした。ここでは、各々自習しながらわからない部分を解説しあう進め方だったのですが、途中からはクラスでも特に勉強に苦戦している子と2人で勉強するように変わりました。この子の成績を引き上げてね、という采配です。
勉強開始も遅れているし、自分のことだけで精一杯なのだが!?と思ったものの、教えることで頭が整理され、明らかに学びが加速しました。私が合格したのは彼女のおかげです。
終わったから言えることですが、実習が延びて国試の勉強期間が短くなって、本当に良かったです。追い込まれたおかげで集中力と効率が上がったし、受験勉強に飽きる前に試験を終えられました。
国試直前の1ヶ月は、大学から専門学校に入り直した分際で国試に落ちるなんて絶対に嫌だ、という気持ちもあって相当にストレスがかかっていました。気分転換のために小説や漫画を毎日1冊以上読み、毎週末映画館に行って、自宅での勉強はドラマを観る合間に行う、というくらい息抜きをたくさんしていました。
サボって追い込んで、そのぶん集中して勉強するやり方があっていたみたいです。
国家試験当日
いよいよ国家試験当日。午前の試験はそれなりに自信があったものの、午後の試験では一回書いた答えの半分以上を書き直すことになり、見直しながらも不安が拭えなかったし、これは落ちたかもしれないと本気で落ち込みました。
それでもベストは尽くした!と言い聞かせました。結果としては合格していたので本当によかった。落ちたかも、不安だ、と思いながら試験が終わって帰る旨の電話を母にしたら「シャンパン冷えてるよー!」と言われたのは今でも忘れません笑
大学時代と異なり、サラッと終わった就活
国試の勉強の合間に就活もしました。
希望条件を箇条書きにして、それに合う求人を選び、一件だけ面接へ。和やかな面接一回のみで無事に内定をいただきました。
大学時代の就活が嘘のようにスムーズに決まり、拍子抜けでした。自分が売れる場所にいけばちゃんと売れるんだ、と理解した瞬間です。
社会人
【就職①総合病院】
ドキドキの新生活
無事に総合病院に就職しました。3年ぶりの1人暮らしです。家は社員寮である、家賃半額のレオパレス。久しぶりの1人暮らしに心が踊ります。とはいえ、実習期間にミニマルで清潔な1人暮らしにはずいぶん慣れたので、あまり緊張せずに引越しを終えました。
同期の理学療法士(PT)は全員4歳下で、4年目までの先輩が年下や同い年。馴染めるかな?と少し不安な気持ちを抱きつつのスタートとなりました。
まずは先輩のリハビリ見学から始まり、少しずつ患者を実際に治療するようになります。スタッフそれぞれ、スケジュールの組み立て方も、患者との関わり方も、治療方法も異なります。違いに困惑しながらも、いろんな手法を学べる機会でもありました。同時に、専門学校で学んできたことは現場のリハビリのほんの一部なのだと感じました。医師や看護師などコメディカルの一員としてのリハビリだし、特に総合病院では、いわゆる体力の衰えた高齢者に向けた体力回復・離床時間維持のリハビリが必要とされているのだと知りました。
リハビリの成果を出すためには患者との信頼関係が第一だ、と知る
就職した直後は、教科書で習った通りにプログラムを立てて治療していました。相手の心を考えずに“この疾患にはこのプログラム”とリハビリを組み立てて機会的に行っていたので、患者との信頼関係を築くことに特に重きを置いていませんでした。
変わるきっかけになったのは、患者からクレームが入り、担当を変えられそうになったこと。リハビリをやりたくない時にも押し付けられる、メニューがきつい等が理由でした。退院までにその方が望む生活動作能力を獲得するために、そうとう頑張っていただかねば…と気合いが空回りしていたのです。ご本人に謝罪し、話し合った結果、改めて継続させていただくことになりました。
誰だってやる気がでない日はあるし、入院自体が大きなストレスになる人だっているのに、そんなことはまったく想像できていませんでした。
このトラブルをきっかけに、相手の気持ちを想像して、信頼関係を築くことを意識するようになりました。
他部署の人たちと仲良くなって連携プレー
リハビリ部は、他部署と個人的な付き合いはない人がほとんど。しかし、わたしはあえて他部署である看護師やヘルパーとも仲良くなるように意識していました。話しかける時は必ず名前を呼んだり、ちょっとした雑談を挟んだり、患者のリハビリ状況を口頭で共有したり、などです。なぜなら、他部署との連携がうまくいくほどに1日のリハビリスケジュールが楽に組み立てられるためです。
入院生活には、検査や入浴、リハビリなど様々な部署が関わります。その管理をしているのが看護師なので、看護師と仲が良いと、リハビリのスケジュールを無理なく組み立てやすいのです。
たとえば歩行訓練が必要な人は、検査までの行き来をリハビリとして行ったり、入浴予定の患者はその前後にリハビリで衣服の着脱やトイレの練習をすることで、時間の節約になり、病棟の負担が減ります。病棟の雰囲気も良くなるので患者のストレスも軽減され、メリットが多いです。
この小さな工夫のおかげで、無駄に病棟を走り回ることがなくなり、仕事の負担は大きく減りました。と同時に、なぜ他のリハビリスタッフはこういう無駄を減らすための行動をしないのだろう?と不思議に思っていました。
リハビリの自我が芽生え始める
2年目になり、通常業務はある程度覚えました。患者とのコミュニケーションでは笑顔と共感、わかりやすい説明を心がけていたので、「今後もあなたがいい」とご指名をもらえるようにもなりました。
一方で、患者が少ない時期でも売上を保つために、必要以上に多くのリハビリを提供して自分の業務時間を埋めていく慣習や、サービス残業を当たり前に行う部内風土に疑問を感じるようにもなりました。
目指すリハビリを模索開始
そのタイミングで、リハビリへの向き合い方が変わるきっかけがいくつかありました。転職してきた先輩や、セミナーで出会った講師の先生などです。
転職してきた先輩は、もともといたスタッフとは異なる治療法を得意とする人でした。小柄な女性なのに移乗介助もすごく上手。もちろん患者からの信頼も厚いです。彼女から、観察の仕方、触れ方、治療の組み立て方など多くのことを教わりました。
彼女に習ったことで、医療者は患者を治すのではなく、患者が治りやすい環境設定をしたり、自ら治っていくためのサポートをする役割なのでは、と考え始めました。
同時期に、院外のセミナーに行き始めます。
いくつかの流派の入門セミナーや、疾患別セミナー、東洋医学など、今まで学んできたこととは異なる学びを取り入れました。学んだことを現場で使ってみて、ますます身体について興味が湧く、という連鎖が始まりました。
その中で、私はリハビリについても社会について、井の中の蛙かもしれない。外の世界をまったく知らないのは危険なのでは?と思うようになりました。
ブログから出会う新しい施術
個人で女性専門の整体サロンを経営している方のブログに出会ったのもこの頃です。
その方は、骨盤に触れると相手の性格や悩み事などが読み解けるそう。触れるだけでそんなに情報ってわかるもの?本当かな?と疑う気持ちがありながらも、ブログの内容も、女性ならではの悩みにピンポイントで刺さるようなことが多く面白く、すぐにファンになりました。
ブログを読み込み、彼女のトークショーに一度行って、それから整体施術の予約をしました。
実際にお会いしたら、本当に身体に触れながら「あなたってこう言う人なのね〜!」をたくさん伝えてくれました。合っているな、と思うことばかりで、占い師なのかな?と思うほど。
施術もスムーズで、身体だけでなく心がふわっとほどけた感覚になり、「こんなセラピストになりたい」と憧れを覚えました。
プライベートでも出会いを増やす
仕事での興味も広がるけれど、恋もしたい。手っ取り早く出会いを増やそう、いろんな人と話してみよう、と思い、飲みに行ったり、街コンやマッチングアプリを使い始めました。
いろんな人と出会って、話しました。恋人も欲しいけれど、いかんせんモテない。場数を踏もうと思い、出会いの数を増やしながら服装やコミュニケーションを変えていきます。その中で、似合う服を着て、明るくテンポの良い会話ができれば大抵の人と打ち解けられる、と気付いたのは大きな収穫でした。
ずっと人間関係に悩んできたので、小学生のころから「願望実現峰」、「モテ本」や「コミュニケーション本」をたくさん読んでいました。でも、まったく効果がなかった。
百聞は一見にしかず、なんですね。星に願うよりも、行動したほうが願いは叶う。毎日いろんな人と会って話すようになったことで、実力は、試行錯誤の過程でだんだん身についていくものなのだな、と身体で学びました。
また、モテる人は顔がいいとかおしゃれとかではなくて、雰囲気なんだなと気付きました。積み重ねた実績は自信になり、風格として滲み出る。逆に言うと、ハッタリでもモテオーラは出せるかもと思いました。演技力でカバーできる。
ここに気付いてからは、異性と話す時にオドオドしなくなり、相手を観察して、どうしたらより楽しんでもらえるか?に意識が向くようになりました。
オンラインサロンで人に会いまくる
視野を広げる活動のひとつとして、キングコング西野亮廣さんのオンラインサロンにも入りました。結果、数百人と知り合いました。
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コミュニティには会社員のみならず、フリーランスや経営者もたくさんいました。整体やエステといった同業種でも自分と同世代の若手フリーランスも何人もいて、それぞれ充実して楽しそうです。
この出会いをきっかけに、自分もフリーランスになりたいなと漠然と思い始めました。
転職活動
出会いを増やすなかで、世界を広げたくなりました。もっと臨床経験を積みたい、違う場でリハビリをしたいと思い、転職することに。
次の職場ではどんな患者に関わりたいのか、どんな職場で働きたいのかを考えて、整形外科疾患のクリニックへ転職を決めました。
仕事面の条件として、自分に近い年齢の患者を担当できること。総合病院で働きながら、私はいわゆる“働き盛り”の世代を担当するときが1番楽しかったのです。身体が元気になることで、仕事が捗るようになったり、気持ちが元気になったと言われるとすごく嬉しいと気付きました。
クリニックを選んだのは、入院患者とは違って、患者が自分の意思でリハビリを受けにくる場所だから。嫌なら来なくなってしまうし、こちらが無理やりリハビリを押し付けることもないと考えました。
プライベート面での条件は、祝日やお盆・お正月がお休みであることと、自分の裁量で有給が取れること。総合病院は365日稼働のシフト制だったので、盆や正月も出勤がありましたし、長い連休を取る人もいませんでした。仕組みとして仕方ないと理解してはいたものの、旅行が大好きなわたしは、すごく不満でした。
転職先のクリニックは上記の条件をすべて満たしていて、先生も若く、スタッフもそれぞれに違う手技を磨いていたので、たくさん学べそうだと感じて就職を決めました。
海外旅行に行きたい
初めての海外一人旅はチェコとイギリスへ
退職から次の仕事開始までは1ヶ月空けて、念願の海外旅行をすることにしました。1人でチェコへ1週間、イギリスで母と合流して1週間過ごす予定でした。
海外の一人旅は語学留学を除くと初めてでした。チェコではプラハ・カルロヴィヴァリ・ピルゼンの3都市を回ったのですが、たくさんの親切に助けられ、幸いにも危険な目には一度もあいませんでした。
昼寝をしていたら夜になってしまって、慌てて店に飛び込んだこともあります。閉店だったのに、可哀想だからと特別メニューを作ってくれ、さらにはわたしのためだけにアコーディオン奏者の方も出てきてくださいました。
チェコ旅を満喫している最中、日本から「母が倒れて入院した、イギリスには行けない」と連絡がきました。驚いたし心配だけど、「帰ってこなくて良い、旅を楽しんで」と言われてしまい、旅程を変更するわけにもいかず。気もそぞろに旅を続けて、帰国後は空港から実家に戻り、そのまま母の見舞いに行きました。
一人旅の楽しみ方を考える
この旅で気付いたのは、1人で旅をしていると、観光名所を巡っても感想を話す相手がいなくて手持ち無沙汰だということ。おいしいものを食べても、景色が綺麗でも、スタンプラリーのように現地に行って写真を撮るだけで、あまり心が沸き立ちません。
ついついSNSを開いて、誰かと繋がっている感覚を求めてしまいました。
ただ、旅の途中で読んだ本は旅の景色や感情も合わせて記憶に残ったり、カフェでぼんやり道ゆく人を眺めている時間は退屈しないということにも気付いたので、自分なりの旅の楽しみ方を考えるきっかけになりました。
そういえば、家族で海外旅行にいって個人行動をしたときも、長女はお土産物を見て周り、次女は街を散歩して写真を撮っていたけれど、私はカフェで外を歩く人を眺めたり、本を読んで過ごしていました。どこにいってもやることはあまり変わらないのかもしれません。
【就職②整形外科のクリニック】
個人主義で働きやすい環境
1ヶ月の休暇を終えて、クリニックに転職です。転職先は、とても働きやすい環境でした。医師は最新の治療法に詳しいだけでなく、リハビリスタッフの意見をきちんと聞いてくださる方でした。病院リハビリでは医師との意見交換の機会が少なく、リハビリ指示も書面で来るのみだったので、一緒に治療している臨場感が以前よりも高く持ててとてもよかったです。
コンプレックスだったコミュニケーションが強みになる
勤める中で気付いたのは、私は患者のネガティブな感情をポジティブに変換していくことが得意であること。
たとえば、運動が心底嫌いで自宅でのトレーニングをまったくやらなかった患者が、担当を私に変更されてからは少しずつ自主トレに取り組むようになり、どんどん回復していきました。
私が行ったのは、相手の話をきちんと聞いて、否定せず受け入れたながら、自主トレで得られる未来をお伝えしたのみ。相手が受け取りやすい速度で伝えていくだけで、自然に気持ちが変化したようです。
リハビリの内容そのものよりも、リハビリ以外の時間でお身体が治っていくようにデザインする。そんなイメージで取り組んでいた結果、院長から「あなたのリハビリは喋りが9割だね、評判も成績も良いし、今のやり方で続けてみて」と言われました。
コミュニケーションに悩み続けた私が、コミュニケーションを強みにできた体験でした。
仕事が楽に回り始める
病院よりも業務はシンプルだったので、仕事にはすぐに慣れました。そして、自分のペースを守りながらも新しい学びをどんどん吸収していくことが楽しくて、仕事がどんどん楽しくなっていきました。
わたしは患者をリハビリ卒業に向かわせることが得意でした。リハビリでは毎月計画書を作成して患者にお渡しするので、そこで現状と目標を一緒に決め、そのために必要なリハビリ期間と頻度をお伝えすることで、患者が医療に依存することなくポジティブに卒業に向かっていく仕組みづくりをしていました。
また、計画書も自分のフォルダ内にパターン分けをして型化していたので、文書作成の手間も少なく済みました。
患者との良好な関係構築を心掛けていたためか、リハビリ職には珍しく、口コミから担当してほしいと指名をいただくこともありました。
施術を磨く
先輩から施術を習う
職場にはさまざまな流派の治療をする先輩がいました。その中で、特に仲良くなった先輩の治療を多く学ばせていただきました。その人はいろいろな学びを自分に落とし込んで、独自の治療をしています。患者との信頼関係も、穏やかに強固で、彼女のリハビリ後の患者はみな表情が柔らかいことが印象的でした。
膝が痛い、など部分的な症状を訴えていても、患者の希望に沿いながら全身をみていくやり方でした。筋膜のつながりや、筋肉の協調性を高めることで、全身が機能的に動くためのコンディショニングをするような治療です。
施術スタイルも、ぎゅうぎゅうと押すのではなく、柔らかく触れていくだけ。今の私が強い刺激がほとんどない施術をしているのは、彼女の影響がとても大きいです。
好きな施術を学びにいく
前職のころにブログを読み始めたセラピストさんのところにもときどき施術を受けに行っていました。
施術も雰囲気も好きだったので、この技術を学びたいと思い、お金を貯めて技術セミナーに行き始めました。単発講座の足ツボケアと、継続講座の小顔ケアを学びます。
東洋医学の推拿をベースにした手技で、普段のリハビリとは全く違う知識に興奮し、のめり込んで学びました。
触れる箇所すべて、愛を持って接すること。お客様を優しく包み込むようなエネルギーで行うことは、彼女の手技を学ぶ中で手に入れたように思います。
と同時に、施術練習をしていく中で、より施術効果を高める方法が見つかる感覚もありました。教えを忠実に守ることも大切だけれど、触れ方も施術の流れも、より心地よく効果が高いものを、という探究心がふくらみ、最終的には先生に許可を得て、教えとは異なるものを自分の施術として行うようになりました。
セミナーで師匠に出会う
理学療法は基本的に西洋医学なので、関節や疾患・痛みの種類などで細かい場合分けをし、個別対応をしていきます。しかしわたしは、身体そのものを大きく捉えて包括的にアプローチする考え方が好きでした。そこで、理学療法士で東洋医学も治療に取り入れている人のセミナーに行き始め、今までと違う学びを積極的に取り入れ始めました。
いろんなセミナーに通う中で、施術の師匠に出会いました。患者の身体の波長と自分とを合わせることで状態を改善する施術をしている人です。その人から習うことは自分にとって、非常に馴染みやすかったし、効果が出やすかったのです。
独立と、親離れ。家族との向き合い方。
今の職場は居心地も良いし、1人で暮らしていけるくらいの収入はいただけています。でも、もっと違う環境で働いてみたい。自分の腕一本で稼いでみたい。そんな風に思い、独立を考え始めました。
エステも整体も、両親からは相変わらず反対されていました。「どうせすぐに商売がうまくいかなくなって、周りに迷惑をなるし、友人たちもいなくなる」と警告されました。
それでも、失敗するとしてもやってみたい。わたしの人生は、わたしのもの。失敗する権利もある。と両親を説得し、結果として、クリニックを退職してフリーランスになりました。
これ以降、大阪移住のときも、今のパートナーとお付き合いを始めたときも、両親に反対されては話し合う、ということを繰り返しています。
父からは「お前がやりたいということは、俺の思いと違うことばかり。お前は俺のことが嫌いなんだな」と何度も言われました。
その度に「親を愛しているかどうかと、親の意見に従うかどうかは別の話。心配してくれることはとても嬉しいけれど、人生をどう生きるかは自分で決めたいし、なによりわたしはもう年齢的に充分大人で、親に言われたからという理由で何かを諦めたくはない。」と説得しました。
現在は父も、仕事についても、パートナーとの関係についても、わたしの思いを尊重しようと努力してくれています。
わたしが今、誰の人生も自分の思い通りに変えることはしない。意見が食い違ってもお互いを尊重する、という意識をもとうと思えているのは、父とのぶつかり合いがあったからこそかもしれません。
父に自分の思いをがうまく伝えられなかった頃は、姉が同席してわたしの思いを代弁してくれたこともありました。反対されることが怖くて泣いてしまい、話ができなかったこともありました。
我が家は家族仲がとても良いと思うけれど、良い関係でいるための努力はこれからも惜しまずにしたいと、こうして書き起こしながら改めて感じています。
【フリーランス】
有料老人ホームでの業務委託
独立したい!という勢いだけで、見切り発車でフリーランスになったので、まずは収入源を探すことから。クリニック時代の先輩に紹介してもらって、業務委託で有料老人ホームで働き始めました。
入居者さんは有名企業の元社長だったり、大学の教授だったり、私でも名前を知っているような方もいました。でも、名声や資産と現在の人間性は全く関係がありません。高圧的だったり、強い認知症だったり。反対にとても物腰が柔らかで丁寧な方ももちろんいらっしゃいました。
家族が頻繁に会いにくる方も、一度もどなたもいらっしゃらずに亡くなっていく方もいました。死ぬときの幸せってどういう状態なんだろうという問いが、自分の中で生まれました。
自分でも施術を開始
同時期に、開業届を出しました。小顔の施術から始めて、少しずつ全身整体もメニュー化。オンラインサロンで出会った人が施術に来てくれるようになり、経験を積ませていただきながらのスタートです。
週に2,3日老人ホームにリハビリに行き、そのほかの時間で出会いを増やしたり、施術をしたりという暮らしを1年半ほど続けました。イギリスに行く時に入院して以降、母が闘病中だったので、実家にも定期的に戻り、両親の仕事のサポートをしていました。
スケジュールとしては充実していたけれど、毎日予定が埋まっていないと不安で、誰かと連絡を取り合うことで安心を得ていたように思います。
施術に来てくれたオンラインサロン関係の友人たちがFacebookで施術の感想を書いてくださっていたので、ご紹介で施術予約をいただくことも多かった時期です。
自分らしい施術を深める
施術を重ねる中で
・基本的に仰向けで姿勢を変えない
・押したり揉んだりは極力しない、痛みを生まない
・トロトロと温泉に浸かっているようなリラックス感
・身体の恒常性が反応しないよう、低刺激で姿勢を変える
という施術に行きつきました。
そして、その施術をしていると、かつてブログを読んでいたセラピストさんのように、クライアントの考えていることや悩んでいることが触れた手から情報としてわかるようになっていきました。
何も話していなくても、クライアントが「気持ちがゆるんで泣けてきた」と涙されることもあったし、施術中にふと思い浮かんだことをお伝えしたら悩みの突破口が見つかったり。
触れているのは身体ですが、アプローチしているのは心なのだなと思います。
クライアントの身体が動きたいようにサポートし、全身どこにも力みのない、より快適な姿勢に戻っていくために施術をしていたので、「あなたの施術はコーチングみたいだね」と言われるようになりました。
ストレングスファインダーを知る
自己理解を深めたかったので、ストレングスファインダーという、自身の強み分析ツールと、それを使った自己理解のセミナーに行き始めました。
出た結果が、数年前に受けたときとは全く異なっていて驚きました。前回は調和性・慎重さ・コミュニケーションなどが上位だったのが、今回は最上思考・運命思考・着想など。
病院職だった頃は、周りに馴染むことを第一に考えて行動していて、この頃はフリーランスになって収入を増やしていくぞ!と意気込んでいたから大きく変わったのかな?と思います。
その後も数年ごとにテストを受けていますが、毎回全然違う結果が出ます。おそらく、環境や親しい人の性格などに大きく影響を受けるタイプなのでしょう。小説を読んだらその小説の世界観に入り込んでしまうし、豪快な性格の人と一緒にいると自分にも大胆な思考が生まれることが多いです。
その悪い面として、本来の自分らしさ、のようなものはいまいちピンとこないまま生きている面もあります。
小学校後半のいじめられていた時代から大学くらいまで、本音を口にしようとすると涙が出てきて喋れなくなってしまう、という時期が長かったことも影響しているかもしれません。だいぶ改善してきましたが、自分の本音は人を傷つける、意見は飲み込んだほうがいい、という気持ちがあったし、今も少し残っています。
周囲の影響を受けやすいぶん、お会いする人や過ごす環境にこだわること。30代になったあたりからは、その意識を以前よりも強くもつようになりました。
コロナが始まる
正社員時代より収入が不安定ではあるものの、自由な時間が格段に増えたおかげでストレスがとても小さくなりました。
旅をしたり、仕事をしたり、ライブに行ったりと、穏やかに過ごしていたところにコロナが始まりました。
老人ホームの仕事は外出自粛の影響で他のスタッフが来られなくなり、私の勤務が週2回から5-6回に増加。時給も上がって収入は3倍以上に増えたものの、急な労働時間の増加と、コロナに対する不安ばかりが募りました。
毎日のように友人に会う生活から一変し、職場と家の往復のみ。自分の施術もストップ。一寸先は闇という気分でした。
息抜きができないまま数ヶ月が経ったころ、不安とストレスで情動が固まってしまいました。仕事用の笑顔しか作れない状態です。
心配して声をかけてくれた友人から「とみー、笑えてない。表情筋が全然動いてないよ」と指摘されました。それくらい気持ちを張り詰めて過ごしていたようです。仕事の不安など、話を聞いてもらって、嗚咽するほど泣きながら感情をゆるめました。
東京脱出を決意
老人ホームの仕事は収入も良く、学びにもなる。でも、コロナ禍の今の生活を続けていたら精神を病んでしまう。そう思って仕事をリセットすることにし、契約先にもその旨を伝えました。
偶然にもこのタイミングで大阪に恋人ができたので、急遽東京を脱出して大阪に引っ越すことに。せっかくならと、ずっと住んでみたいと思っていたソーシャルアパートメントというシェアハウスを新居に決めて、大阪に引っ越しました。
大阪のソーシャルアパートメントで暮らし始める
念願のソーシャルアパートメントは50人の共同生活。いろんな人と仲良くなりたかったものの、人見知りをしてしまい、部屋にこもってばかりでした。それでも、プライベートで人と話せることは癒しだったし、広々とした共有スペースも快適に使っていました。
移住直後もオンラインサロンのおかげで大阪に知り合いができて、施術場所を提供していただいたり、施術に来てくださる方もいました。引越しのきっかけになった恋人とはすぐに別れてしまいましたが、地方に腰を据えて住むのは人生初。数ヶ月張り詰めていた気持ちが緩んで、解放的になれました。
旅するセラピストになる
まったくゼロベースで大阪に移住したので、知り合いもほとんどいないし先行きは全くの未定でした。
まずはもともと施術に来てくださっている方のところへ行こうと決め、毎月東京へ通うことに。
幸いにも、何泊してもいいよと言ってくれる友人がいたり、整体サロンを間借りさせてくれる仲間がいたので、出張施術は低予算でスムーズに始められました。
また、茨城に住む友人がコミュニティマネージャーをしている施設があり、そこへも「施術しに来て〜!」と呼んでくれたり、ご自宅で出張施術をしたあと、泊めてくださる友人もいました。
オンラインサロンで活発に人に会っていたので、「大阪に移住したとみーが東京にいるぞ」とわたしに会う目的半分、施術半分で予定を合わせてくださる方が複数いたので、東京での出張施術は毎月とっても楽しかった。
茨城でも、ご縁をたくさんいただけて、経験を積ませていただきました。施術でクライアントのマインドがポジティブに変化する!と自信をもてたのは、茨城で出会った方々のおかげです。
現パートナーと出会う
西野さんのオンラインサロンとは別で、大阪で知り合いを増やすべく、HIU(堀江貴文イノベーション大学)にも1ヶ月だけ入ってみました。そしてHIU近畿支部で年末に開催されたキックボクシング体験会×忘年会に参加した際に、今のパートナーと出会いました。
イベント初参加だったので、参加者も全員初対面。おしゃべりもしつつ、キックボクシングを楽しみました。このときの主催者が、現在のパートナーです。わたしのボディコントロールと蹴りの強さに好感を持ってくれたようで、出会って2週間でお付き合いにいたり、交際ゼロ日で同棲し始めました。蹴りで始まる恋なんて、あるんですね。笑
彼はリモートワーカーで、かつ大阪と香川の2拠点生活をしていたので、車で移動しながら生活していました。付き合い始めてすぐから同棲を始めたので、ひとりになりたいときは大阪のシェアハウスに帰るものの、基本的には自宅で仕事をしている彼と24時間一緒の空間で過ごします。
わたしは、初対面の人とイベントなどで数時間話したり打ち解けたりするのは得意ですが、誰かと四六時中一緒にいると、気を張り過ぎて疲れてしまいます。でも、彼が驚くほど素直で正直な人だったからか、狭いワンルームでずっと一緒にいても、ストレスなく過ごせました。
彼のおかげで変わったことはたくさんあります。
たとえば彼は、過去に対してくよくよと後悔することがありません。起きたことは仕方がない、そのあとどうするかを考えるだけ。トラブルに遭遇するとパニックになることが多かったわたしは、感情を乱さずに淡々とトラブル対応をすることに衝撃を受けました。
運動嫌いだったわたしに運動習慣ができました。キックボクシングが出会いのきっかけだったこともあり、「とみーは絶対に運動できるから!一緒に動こう!」と熱心に誘ってくれたので、渋々ながらパーソナルトレーニングにいったり、ランニングや柔術にチャレンジ。
その結果、自分は運動音痴ではないしむしろボディコントロールが上手だと気付きました。
そして、デブは万病のもとだから痩せなさい、さもなければ別れようと(半ば脅迫のようですがw)強く諭されたおかげで、本気で減量に取り組み、20年来の肥満からも脱却できました。
2拠点生活から福岡暮らしにチェンジ
2拠点生活は刺激的で楽しい一方で、生活が落ち着かず、不満もありました。大阪も香川も、わたしにとって一生暮らす土地ではなさそうだとも思っていました。2拠点から1拠点に戻したい、今まで住んだことのないところに住んでみたいと、彼と話し合い、福岡に移住することに決めました。
このタイミングで両親にも彼と将来を見据えて暮らしていることを伝えました。年齢差などを理由に反対されましたが、コロナ禍でも心身ともに健やかに過ごせているのは彼のおかげであることを伝え、しぶしぶながら了承を得ました。
2022年の年明けから家探しを始めたところ、内見初日に希望を全て叶えた物件が見つかりました。すぐに契約し、1ヶ月で2拠点両方の荷物を片付けて退去を済ませ、2022年2月に福岡へ移住しました。
荷造りの過程では、思いがけず彼と何度もぶつかりました。わたしは人に驚かれるほど荷物が少なかったので、彼の荷物の量が理解できなかったのです。使っていないのに持ち続けている物や、持っていることすら忘れているような物を、なぜ捨てないのかと、コレクター気質を全く理解できなかったのです。
相手の考え方を思いやらずに自分の常識を押し付けてしまったため、何度も喧嘩になりました。途中で「この向き合い方はよくないな」と気付いたので、現在は彼の思いを尊重しながら自分の希望も伝えるという形をとっています。
今までの人付き合いの中で、わたしは相手とぶつかることを極端に恐れて言いたいことを飲み込んでいました。しかし、彼がストレートに意見を伝えてくれるので、わたしも自分の意見をまっすぐ伝えるように変化したのです。言葉の鋭さに傷つく場面もありますが、ぶつかり稽古をするような面白さも感じています。
仕事面での試行錯誤
講座を受講しInstagram集客にチャレンジ
コロナ禍はどうしてもオフラインでの出会いが少ないので、オンライン上での出会いを増やそうと3ヶ月のインスタ講座に申し込みました。
講座の教えを素直に実践した結果、元々500人程度だったフォロワーは2800人にまで伸ばすことができました。
ただ、フォロワーにはなっていただけたものの、顧客獲得に繋げられませんでした。アカウント運用の方向性を間違えたようです。毎日投稿しなければ、という思いで手段と目的が逆転してしまい、方向転換の方法も見つけられず、SNS集客は向いていないのだ、と諦めてしまいました。
またこのときに課題に感じたのが、ボディケアのセラピストなのに、発信内容がマインドに関わることばかりになってしまうことでした。わたしにとっては身体を整えることは心へのアプローチであり、心と身体は分けられないひとつのものである(心身一如)けれど、それを言語化して、投稿に落とし込んで、ファン→顧客へと導線を引くことが困難でした。
SHElikesに入会、ライターを志すも失敗
社会人としての経験は、リハビリ職とフリーランスのセラピストのみ。旅をする機会が多いので、オンラインでも仕事ができたら良いなあとオンラインキャリアスクールのSHElikesに入会しました。
デザイナーやライターなど、さまざまな職種に対応した授業があります。もともと文章は読むのも書くのも好きだったので、ライターコースをメインに受講していきました。
ヘルスケアライターとしての案件を受注したり、SHElikesのライターコンペにも入選できて、ライティングの学びはとても楽しかったです。
しかし、授業ごとに与えられた課題はなかなか取り組めませんでした。
また、ヘルスケアのSEOライターの仕事も、作業としてはできるけれど全然楽しくなかった。執筆内容が専門分野であるがゆえに指定された内容に納得がいかなかったことと、単価を上げていくイメージを掴めなかったことから、数ヶ月で離脱してしまいました。
この契約だけでライター業を諦めるのは時期尚早だし、キャリアパスの最初が低単価であるだけ、経験を積んで単価を上げていけば良いと頭ではわかっているものの、SEOライティングそのものがどうしても楽しめず、成功イメージが湧きませんでした。ライターコミュニティに入ってみたり、他の案件も探したものの契約には至らず、ライター業はここでいったん打ち切りに。
一方で、ライティングを学んだことでnote記事を書くことは以前よりも楽しめるようになりました。ただ思いを言葉にするだけでなく、構成を組んで伝えたいメッセージを意識して書くようになったことで、以前よりも書きたいことをきちんと書けるようになった気がします。
講義自体は楽しかったのですが、きちんと収益化できずに、半年ほどでSHElikesは退会しました。
自宅サロンを開始するも苦戦
毎月の東京出張に加え、福岡では自宅サロンも開始しました。オイルトリートメントをメニューに加えて、知り合いに施術の練習モニターで来てもらい、30人ほど施術させていただくところからスタート。
無料〜3,000円程度の金額でのモニター施術は多くの方からご希望をいただけたものの、正規料金での施術予約にほとんど繋がりませんでした。
東京と福岡で値段を変えるべきなのか、自分は誰にどんなサービスを提供したいのかなど、迷う中で立ち止まってしまう時間が長くなってしまって。ビジネスとして施術に取り組むことに、まだまだ苦戦しています。
脱デブを決意
パートナーから度々、運動しなよ、痩せなよと言われていましたが、、中学生のときに「自分はダイエットをすると盛大にリバウンドする。一生痩せられないんだ」と呪いをかけていたので、のらりくらりかわしていました。
ついに「いつまでデブでいるつもり?痩せるか別れるかの2択にするから選んで」と言われてしまいました。
そこから、慌てて痩せることを決意しました。
減量開始
とはいえ、かつて自分にかけた「一生痩せられない」という呪いはなかなか強力でした。負荷をかけると反動が大きく、かえって太ってしまうこともわかっています。そのため、少しずつ減量モードに移行していくことにしました。
お酒を減らす、たくさん歩く、YouTubeのレッスン動画を見ながらヨガをする、くらいの簡単に取り入れられることから始めて、慣れてきた頃にランニングを開始しました。
ランニングも、最初は数百メートルだけ。少しずつ距離をのばして、3-5kmのランニング習慣にしていきました。
パーソナルトレーニングに通い始める
姿勢改善と筋力増強を目的に、パーソナルトレーニングにも通い始めました。毎日どこかしら筋肉痛、という日々の始まりです。
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ここで、思いがけずセラピストとしての経験が役に立ちました。施術で磨いた身体感覚が、トレーナーの指示を実践するのにとても役立つことに気付いたのです。
どの筋肉を狙っているのかを正確に掴めるうえ、筋収縮の感覚がわかるので、正しいポジションに入っているかを直感的に捉えられるのは強みでした。少ない回数でもしっかり狙った筋肉に効くトレーニングができ、ダンスの経験から形を真似することも得意だったので、通い始めて1ヶ月ほどでボディラインに変化が出ました。
この減量をきっかけに5kg痩せて、フォトウェディングも経験できました。運動習慣がついただけでなく、長年の「私はデブから抜け出せない」という呪いは解け、自己肯定感も向上しました。
ここから現在(2024年8月)にかけて、合計10kgほど減量しました。BMIは26(軽度肥満)から22(普通体重)まで落ちました。2年前は体型を隠すふんわりしたシルエットの服を着ていましたが、現在はノースリーブはタイトスカートを着られるようになりました。
コーチング
「とみーの施術はコーチングみたい」と言われていたことから「からだのコーチ」と名乗っていましたが、コーチングについてきちんと学んだことはなかったです。
ぼんやりと「コーチング=内省を促し、本音に寄り添って前進をサポートするもの」と思っていたものの、施術だけで生きていくと思っていたのでコーチングを学ぶつもりは特になかったし、自分がコーチになる未来は想定していませんでした。
素敵な友人がコーチだった
憧れている、素敵な友人がいます。
いろんなチャレンジをしていて、服装もおしゃれで、話しているだけで脳が刺激を受けます。そんな彼女があるとき、SNSでコーチングスクールの紹介をしていました。「コーチングがない人生は想像できない」というようなことを書いていて、彼女の魅力の源泉はコーチングなのか?と、興味を持ちました。
そしてコーチングスクール無料の説明会を受け、数日悩んだ結果、受講することに決めました。
コーチングが面白そうだと思ったのはもちろんですが、施術にとても役立ちそうだと思ったことと、コミュニティそのものに大きな価値を感じたことも大きな理由です。コーチコミュニティの人は、仕事で大きな成果を出したり、趣味で今までにない挑戦をしたり、人生を自分らしく生きることに本気の人が集っているなと思いました。
スクール期間にコーチのプッシュで人生が動く、を経験
私は本や動画で学ぶこと、思考をめぐらせることは大好きな一方で、行動力に乏しく、決めた目標まで走りきれないことが悩みでした。
友達からは行動力があるねって言われるけれど、本当にやりたいことのほんの一部しかできていない。行動したほうがいいのはわかるけど、失敗が怖くて動き出せない。ちょっと行動してうまくいかなかったときは、すぐに諦めて現状に引き戻されてしまう。
コーチングを学ぶことで、その現状への揺り戻しの仕組みも科学的に理解でき、そこから抜け出すためにコーチが必要なのだと理解しました。
私自身も、先生や仲間の後押しのおかげで、趣味・仕事で新たなチャレンジをすることができました。減量してウェディングフォトを撮影し、新しい仕事に飛び込み、今までにやったことのないピアノ弾き語りライブにも挑戦したのです。
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コーチになる、と決意した
コーチになる意志が固まったのは、スクール期間の半ば頃でした。
コーチは、クライアントの思考抽象度を引き上げることで、現状のマインドの状態では思いつかないような未来を描くサポートをする存在です。
「わたしはクライアントの人生をより良くしたい!と思って施術をしているのに、コーチングマインドを持ってないなんてものすごくおかしい。」と急に気付いたんです。
わたしが入ったMindset Coaching Academyは日本で一番プロ認定が難しいと言われているスクールだったのもあり、プロコーチになれたらいいな、くらいの気持ちでしたが、絶対にコーチ試験に合格するぞ、と気持ちを入れ替えました。
愚直にコーチングと向き合う
プロ認定要件は、プロレベルのコーチングセッションを初対面のクライアントに対して行うこと。スクール期間の後半戦では、コーチングのモニターセッションをひたすら行います
多くの卒業生が20-50セッションで合格していく、と聞いていたので、合格できないと悩むのは50セッション経験してからにしようと決め、とにかくいろんな方にモニターのご協力をいただきました。
コーチング理論を頭で理解したつもりになることと、クライアントにコーチングを機能させることは天と地ほどの差がありました。セッションを後から振り返った時にまったくとんちんかんな応答をしていて落ち込むこともしばしば。
でも、プロになると決めたので、メンターにフィードバックをもらいながらひたすらセッションを重ねました。
途中ですごく迷ったのは、モニタークライアントとの向き合い方でした。プロレベルに達していない私のセッションは、クライアントの人生にむしろ悪影響を及ぼすのでは?迷惑をかけてしまうのでは?と思ったのです。
でも、プロのコーチングができていなくとも、クライアントの未来を本気で一緒に考えることはできる。そして成長のためには経験あるのみ。セッションに入る前に、コーチングの影響や自分の心づもりなどをきちんと伝えた上で、本気でクライアントのことを考え抜くぞと心に決めて毎回のセッションに臨みました。
合格し、プロコーチとなる
結果として、無事に卒業式までに卒業要件を満たし、プロコーチになりました。モニターセッションにご協力いただいたモニターの皆様、応援し支えてくれた皆様、改めてありがとうございました!
合格後は、プロコーチとして活動開始です。半年契約の継続セッションを提供していきます。
クライアントのことをクライアント以上に理解し、100%全力で応援すること。クライアントが本音からずれていきそうなときに、逃さず見つけて本音のセンターピンを再認識していただくこと。責任の重さにヒリヒリした緊張を味わいながらも、人生の変容を伴走する仕事にとてつもないやりがいを感じています。
自分もコーチングを受け始める
2024年6月から、わたしもコーチングを受け始めました。コーチングを学ぶきっかけになった素敵な友人に、コーチ契約をお願いしています。
コーチングを受け始めてから、ずっと嫌いだった自分の「反射で無意識にマウンティングしてしまう」という悪癖を手放すことができました。
このnote自体も、最初に書いたときは辛かった過去に対する恨みつらみが自分の内側からどんどん出てきて、被害者意識満載の文章になってしまっていたのですが、コーチングのおかげで自分の過去に対する認知が変わり、大幅にリライトしています。
今までの経験から無意識に刻み込まれた「当たり前」を疑い、ひとつひとつの行動が真に自分らしいのか、他者から埋め込まれた価値観から行っているものなのかを捉え直す作業は、ひとりではとてもできないと感じます。
現在のわたしはたしかに他者から影響されやすいけれど、その内面の一番奥に凍り付かせてしまった強さがあることも、思い出すことができました。思い出したばかりのこの強さを、どう馴染ませて生きていくかをわくわく模索しているところです。
コーチとして、セラピストとして、クライアントがど真ん中の本音にまっすぐアクセスして生きるサポートをしていくために、自分も強くしなやかに生きていきます。
半年間のコーチングを受けました(2024年12月追記)
ひたすら愚直に自分と向き合う半年間を過ごしました。間もなくコーチング契約が終わりを迎えます。心境としては、変な高揚感も、過剰な自己否定もなく、「他の誰にもなれない。自分らしさをきちんと育てていこう」と言う感じ。肩の力が抜けたように思います。
自分のど真ん中にちゃんと軸がのっているときの、表情筋の感覚や思考のクリア度合いを身体に覚え込ませる期間でした。
以前よりも突発的な感情のアップダウンをメタ認知できるようになったこと、自分の身体感覚への信頼感が増したこと、それによって雰囲気が以前よりも柔らかくなったようで、「幸せなんだね」と言われることが増えました。
仕事の内容やお付き合いのある人間関係など、自分を取り巻く環境すべてが「自分の成果」ではなく「ご縁の積み重ねによって生まれた偶然な幸運」だと感じるようになりました。
だからこそ現状に過度に固執せず、未来のランダムネスにわくわくして、1日1日を愚直に生きていけばいいんだな。そんな感覚です。
寄り添い伴走してくれたコーチの存在には、感謝してもしきれません。二の足を踏んでも、心が暗闇に沈んでも、「あたたかな未来を生きる私」をまっすぐに信じてくれる存在。恣意的な誘導はせず、私の内的対話が捗るサポートをいつでもしてくれました。
終わりに
初稿は3万3千字ほどだった自分史noteも、リライトを重ねて4万字。
今までの人生の大半で、コミュニケーションや親との関係に悩み、解決するために学んで行動してきました。寄り道も回り道も多いです。傷つけたり迷惑をかけた人も山ほど。でも同時に、わたしが関わったことで幸せになった人もいるでしょう。
自分史を通して自分と向き合って、これからも、人を心身両面からサポートしていくぞ、と決意を新たにしています。
自己研鑽を続け、関わってくださる方への感謝を忘れず、これからも進んでいきます。
読んでくださったことで、あなたにもポジティブな変化があればこの上なく嬉しいです。こんなにも長い文章を読んでくださって、本当にありがとうございました。あなたの未来が輝くことを、心から願っています!
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