川田稔『満州事変と政党政治』ー関東軍の暴走と政党政治の終わり
満州事変における関東軍の暴走に興味があって、川田稔『満州事変と政党政治』(講談社選書メチエ、2015)を手に取った。
三浦瑠麗が『シビリアンの戦争』(2012)のなかで、関東軍の独走を「例外」と触れていたのを読んだからだ。同著は「近代以降、実はシビリアンの側が戦争を主導していた」ということをクリミア戦争からイラク戦争までいくつかの事例を分析して論じたものだ。そういった本の中で三浦は関東軍を例外とするのである。言われてみればたしかにそうだ。なぜ関東軍は内閣を無視してあんな暴走ができたのだろう?
本書にはなぜ事件にいたり、なぜ満州事変が成功してしまったのか、その経過が詳細に書かれている。それはなぜ日本の政党政治が軍に敗れてしまったのか、ということでもあるのだ。満州事変のあと、若槻内閣が総辞職してのちは犬養内閣が組閣されたが、犬養が5・15事件で暗殺されると、政党政治家ではなく元軍人で台湾総督の斉藤実に大命が下って政党政治は終わりを告げた。
国際連盟による国際秩序に期待を寄せる考えは、政治家にも軍部にもあった。なにしろ国際連盟では日本も常任理事国であったのだ。一方で、国際連盟が強制力を持たないがために戦争を抑止し得ず、次期戦争は起こらざるを得ない、という考えもあった。永田鉄山らがそうである。
そのとき、欧米に比べて圧倒的に工業力、資源に劣る日本は、満州、華北の豊富な資源を必ず確保しなければならない、と永田は考えた。つまりはある種将来起こりうる戦争に対する防衛的な意思を持って満州の属国化を考えたのである。永田が認識していたと思しき資料によると、日本と欧米各国との国力差は各20〜30倍。たとえば飛行機なら、日本は約100機に対してフランス3200機、イギリス2000機。とても相手にならない(ところで結局満州国を得てから、この格差はどのくらい縮まったのだろうか?本書では触れられていないが)。
永田らは中堅幕僚で構成される陸軍将校の会合(二葉会、のちに木曜会と合流して一夕会)を作り、軍中央の実務ポストを仲間で占める工作を進める。東條英樹、石原莞爾、山下泰文、河本大作、板垣征四郎、牟田口廉也などの名が見える。
自分たちが陸軍大学校教官になった際には、陸軍から長州閥を排除すべく入学試験の点数に意図的な操作をして長州出身者を大学に入学させなかった(いつの世でもこういう卑怯な方法を取る人間はいるのか)。最終的には、宇垣一成ら陸軍首脳部の意図に対し、永田らの一派で占められた陸軍の実務官僚たちが反抗し、内閣の陸相(陸軍)&参謀総長(海軍)のコントロールが及ばぬまま独走するという事態になった。それが満州事変である。若槻内閣当時の南陸相、金谷参謀総長はむしろ事件を容認せず、満州からの撤兵を指示したが、関東軍は何かと理由をつけて無視し、撤兵には至らなかった。
ガバナンス上の問題がいくつか見受けられる。
まず、南陸相が軍部を完全に把握できていないこと。前述のように一夕会が実務官僚を占めていたため、陸相に楯突く、さらには突き上げて意のままにする、ということさえ可能だった。南は当初は撤兵を指示したが、やがて押し切られるようにしてずるずると現状容認の姿勢に変わっていく。
首相と陸相の間でも、互いに牽制しあう状況に追い込まれていたこと。陸相が辞任した場合、「陸軍が候補者を出さない」「気に入らない陸相の言うことは聞かない」という実力行使で次の組閣を阻止できる。一方で陸相がいうことを聞かない場合には首相側も辞任し、総辞職するという手段がある。だが、それは陸相の辞任に比べて分が悪い。
当時の首相の選定が元老・西園寺公望が候補者を「奏薦」し、大命降下のかたちで天皇から命じられたということ。この形式は、「天皇を責任問題から守る」という意図があるが、失政の責任などを元老や侍従長といった側近が被ることになる。事実、国民のあいだでは彼らを「君側の奸」扱いする声が出ていた。西園寺が首相を選ぶ役割を持っているこの体制は、ワイマール共和国でのヒンデンブルク大統領の立場を思い出す。ヒンデンブルクは議会の混乱に対処するためにヒトラーを首相に指名してしまった。
あとはやはり統帥権の問題だろうか。日露戦争、第一次世界大戦の戦訓は、「これからの戦争は総力戦になる」という前提を将校たちに植え付けた。総力戦では軍事力のみならず国力の多寡が問題となる。国力の増大を「軍部が」課題としなければならなくなった。結果として、戦争に必要な資源を得ることを目的に対外戦争に踏み切る主張を軍部に許してしまった。
これは、統帥権という、事実上政府から独立した権限を軍部に与える仕組みの欠陥だろう。名目上の最高責任者は天皇だが、天皇に何か指示、命令などをさせれば立憲君主制が揺らいでしまう。だから、天皇はかたちだけの存在だった(それを踏まえつつ2・26事件と終戦とで自らの決断を示したというのは昭和天皇自身かなり強く記憶していたようだ)。
満州事変を主導した石原莞爾は「世界最終戦争」なるものを指向していたらしい。それが何十年先のことと考えていたのかは知らないが、そこまで遠くに視野を置きすぎると、目先のことが些細なことに思えるのだろうか? 満州は彼の企ててあっという間に日本軍の手に落ちてしまった。
今回改めて満州事変についての本を読んで感じたのは、「日本は背伸びをしすぎたのではないか?」ということである。ほとんど何もないところから一気に、明治維新、日清・日露戦争の勝利、第一次大戦で戦勝国の側にまわる、と近代化の道を駆け抜けてきた。辻褄の合わないところもあったものを無理やりになんとかねじ伏せてそこまではやってきた。しかし、国力のいかんともしがたい差がどうしても横たわっていた。そこでいったん世界の表舞台から身を隠して国力を養うようなことでもできれば良かったが、そうはできなかった。国力の差をなんとかしようとして、満州事変のような極端なことに手を出したり、精神力に頼らざるを得なかった、戦前の日本にそんな悲しさを覚える。