日記 4/15

人間交際という言葉は福澤諭吉がSocietyに当てた言葉だったと思う。じんかんこうさい。人と人との関わり合いが、コミュニケーションが社会を作るということだったか。言葉の印象だけは強く残っている。

これは全校参加の演説会で福澤研究家の教授か誰かが、高校生だった我らに行った演説講義で知ったことだ。例に漏れず長々しいレポートが課されていた。普段なら確実に取ることのないメモを取りながら話を聞いたからか、内容ももちろんスピーカーの顔から内容まで、鮮明に覚えている。

コミュニケーション。苦手としている人も多いと思う。総じて言ってしまえば、人と関わることが不得手である、というところに収斂するだろう。僕としては、苦手ではないが好んでもいない。なんともつまらなくて申し訳ない。

ここまでは基本的に対面での関わり合いの話。今回ぼやぁと考えていたのは非対面式のコミュニケーションについてだ。

非対面式の関わり合い。種類は色々あると思う。電話やメールをはじめ、手紙、SNS、インターネット掲示板。繰り返しになるが、まあ色々あると思う。以上のような非対面式とはじめに取り上げた対面式コミュニケーション、双方にもしくは片方のみに得手不得手を感じる人がいると思う。それについて考えたことを残そうと思って、今、文章を認めている。

「どこまで晒されているか」というのが論点な気がしている。個人情報、姿、性格、声、嗜好、背景、以下いろいろ。姿や声だけでほとんどのパーソナリティを晒している気分になるだろう。自分の80%くらいの情報が晒された状態の対面式コミュニケーションが得意に感じるのも、なんとなく苦手に感じるのもわかる。

僕が難しいと感じるのは非対面式の方だ。主にSNSを通じての非対面式。SNSではある程度の個人情報は晒されている(性格、嗜好、部分的な背景など)。これが難しい。相手の情報がわからないことが一番難しい。かくいう僕も、プロフィール写真は自分のスマホ、紹介文も個人情報的なものは記していない。

姿からは性別、年齢、嗜好などが透けて見えると思う。それがない非対面式では、最初のコミュニケーションの糸口を探すことが大変だ。恐る恐る「いいね」を押す。「拡散」する。「返信」する。全てのフェーズに実行までの壁があると思う。

余談だが、僕はその壁の壊し方がイマイチまだわかっていない。個人的には、特に最後のフェーズの「返信」が難しい。コミュニケーションの肝であるからこそなのか。やはり相手の情報を持たない状態での「返信」はコミュニケーションにならないのではないかという不安も原因だと思っている。

話を戻す。最近は世間一般的にSNS上でのコミュニケーションが増えた。報道よりも早い。フィルターのない生の声。特に新型コロナウィルス感染症の流行で爆発的にインターネット人口は増えたと感じる。

恐れを知らない人間はいるものだ。不躾な「返信」を平気な顔をして行っている。他人のパーソナリティの理解を差し置いて自分の意見を、感情的に、反射的に物申す。「返信」をもらった側は、反射的に「返信」の「返信」を、同じように送りつける。一方通行の言葉が、双方向に槍のように突き刺さる。
こんなものはコミュニケーション、ましては人間交際ではない。

肝は「知ること」だと考えている。部分的な情報から相手の背景を類推して、言葉を紡ぐ。それが的に当たればコミュニケーションの成立に近づく。当たらずとも相手の気持ち次第ではコミュニケーションが成立するだろう。そしてそんな対話を通じて互いを知っていく。理解していく。結局は対面式で得られるような「簡単な情報」を推し量りながら行うのが非対面式コミュニケーションなのかもしれない。

そこでだが、非対面式が得意な人間というのは、単にそう思い込んでいるだけの人間だと考えた。相手を理解せずに、自論を押し付ける。そんな独り言の応酬をコミュニケーションと錯覚し、得手だと妄信している。反して、真にコミュニケーションを得意としている人間は対面非対面問わず得意なことが多いだろう。「知ること」への情熱と理解のためのリテラシーが高く、同時に「知ること」に喜びを感じることができる人間だろう。非対面だけが得意というのはあまり考えられない(反対はあり得ると思う)。僕はどっちだろう。相手の話を聞くこと、他人を「知ること」は好きだ。ならば素質はあるかもしれない。

SNSに感じた息苦しさ。それは対面コミュニケーションの減少から今後増えていくものではないかと思う。寂しさもある。でも、人間交際の肝は変わらない。そこを楽しめる人間でありたいし、社会もそうであって欲しいと思っている。

追記
塾生として、福澤先生をもっと知るべきかもしれない。故人の教えは偉大である。入学時に送りつけられた『福翁自伝』に手をつけてみようか。そんなことを思っても結局、そうはしない格率の方が高いだろうな。
写真は慶應義塾の公式サイトから拝借した。先生は男前だ。