スロウハイツ

ここ数日『スロウハイツの神様』を地道に読んでた。辻村深月先生の2007年の作品。作者の処女作だけは読んだ記憶がある。なんとなく帯を見て「面白そう」と感じ、買ってみた。

普段は漫画ばかり読んでるからか、キャラクターに入り込むのに時間がかかったのが痛かった。詰まらないとまではいかないが、退屈に感じる時間も多くあった。追い討ちに、脳内で映像を組み立てる力が衰えている実感があった。時々文章に目が滑っているだけになったり…酷い話だ。まずこの時点で、活字に触れるモチベーションは鰻登り。物語好きを公言しておきながらこの為体は許されんだろう、と息巻いていた。変な話でしょう?

本筋に入る。
この作品は「スロウハイツ」という小さなアパートで共同生活を送るクリエイターたちの物語だ。脚本家、小説家、漫画家の卵、映像作家の卵、画家の卵、編集者。各々想いを抱えて同じ屋根の下、時を過ごしている。

この作品の大きなテーマは「青春」。それも、20後半から30の、不器用な大人の「青春」だ。拗らせに拗らせたクリエイターたちは、どこまでも人間だ。苦しい。でも、どこか清々しい。読後の所感はそんなところ。

↓感じ取ったこと↓
・光明が降り注ぐその瞬間に手を伸ばせた人間は、導かれる。報われなくとも、停滞からの脱却がある。
・己の支配者であれ。

この作品における「光明」は多くの場合「赤羽環」によってもたらされる。スロウハイツのナンバー2を自覚、自称しながらも、先陣を切り先を照らすのは常に彼女だった。

狩野には常々、創作のアドバイスや方針の提言を。
円屋には「ラスボス」として立ち塞がることで彼を人生の次のステップへ導いた。
スーには破滅からの再生を、時に直に、時に遠回りながらも促した。
莉々亜には、処女作のメッセージを通した引導を渡した。
コウちゃんには、主に最終章を通じて描かれるが、「天使ちゃん」としての支えに。
正義は例外的にスーとの別れが光明となり「感情」を表現する壁を突破した。もちろん作家性の形成段階で環に影響されている。

実際のところはここに記せないくらい様々なきっかけが登場人物それぞれにあって、道を定めてスロウハイツから旅立っていった。不器用な彼らが、過去に、現実に、将来に、環境に、宿敵に、羨望に、憧憬に、恋人に、友人に、そして己の想いに向き合えたその時、次の一歩を踏み出す。その過程の説得力は胸をチリチリと刺す心理描写と各エピソードの連関の巧妙さからくるのだろう。

「きっかけ」から「行動」へ。これは各人が己を進める意思をもってできるものだ。エピローグにその結果はある。不器用で、不格好で、世間知らずだった彼らの飛躍の決定的一打は「自分を知ったこと」だ。

なんとなくで手にとった作品だったが、物語としても、未来への指南書としても、非常に整っていて「面白い」作品だった。満足!