【短編小説】えびすばし 後編
もちろん富田の子だった。富田以外の男性とはそういう行為に及んでいない。
三十歳を越えた富田は、相変わらず仕事をせず、仕事を探そうともせず、堕落した生活を送っていた。もちろん組も完全に富田を見放していた。
酒が飲めないというのが唯一の取り柄といえば取り柄だった。もし二十四時間アパートにいる富田が酒飲みだったら、もうとっくに身を滅ぼしていただろう。
組への借金が減るにつれ、富田が荒れることは少なくなった。あけみへの暴力もほとんどなくなっていた。ただ、夜中、あけみがアパートに帰ると、まるで母親の帰りを待ちわびた子供のように、足元にじゃれつくようになった。あけみが帰るまでのひとりきりのアパートは、富田に幼児期の心の傷を思い出させるのに充分だったのだろう。
その度、あけみは、他人が見ればどうしようもない人間である富田が愛おしくなり、やはりこの人は自分を必要としているのだと思うのだった。同時に、自分も富田が必要だと。
やがて、ついに借金を完済することが出来たあけみは、その報告のため、急いでアパートへ帰った。もうひとつ報告があったため、足取りはとても軽かった。
富田はいつものように、あけみがドアを開けるやいなや玄関までやって来、まだ靴を脱がないあけみの足元にじゃれついてきた。それを何とかほどき、畳に上がったあけみは、抱きついてくる富田に借金がなくなったことを告げた。
富田は涙を流して喜んだ。あけみに頭を下げ、感謝の言葉を並べた。富田は額を畳にこすりつけ、いつまでも礼を言っていた。
あけみは富田の体を起こし、涙を拭ってやった。出会った頃より頬がこけ、無精髭で顔の下半分を覆った富田は、より貧相になっていたが、あけみは今がどん底で、これより下はないと自分に言い聞かせた。
富田はされるがままになっていたが、やがて口を開いた。
「やっと、始めることが出来る。俺ら二人の、いや、誰にも邪魔されへん二人だけの生活を始めることが出来るんや」
そう言って、やっと乾いた頬を、再び涙で濡らすのだった。
あけみも涙が溢れてくるのを止めることが出来なかった。二人はしばらくの間、強く抱き締め合っていた。
やがて、富田があけみの服のボタンに手をかけたので、あけみはやんわりそれを制し、もうひとつの報告を始めた。
「子供が出来てん。三ヶ月やって言われた」
あけみは母子手帳をハンドバッグから取り出し、富田の顔の前に掲げた。
富田はそれをじっと見つめていた。あけみはその反応に戸惑いながらも、もう一度、はしゃいだ声で言った。
「なあ、聞いてる? 妊娠してんで。私ら二人の子供が生まれるんやで―」
その声の後半部分は、富田の怒声で掻き消された。
「俺らの子やとぉ! そんなもん誰の子かわかったもんやない。堕ろせ! 明日堕ろしてこい!」
そう言うや、物凄い形相で母子手帳を引ったくり、畳に叩きつけた。
富田の言葉に驚きながらも、あけみは必死で言い返した。
「嫌や! この子はあんたの子や! あんたとしかそういうことしてへん。だから、あんたの子なんや。あんたの子やから産む!」
「嘘つけ、そんなん信じられるか! 誰の子かわからんやろ。堕ろせ!」
しばらく水掛け論のような言い合いが続いた。そんな中、あけみはなぜこれほどまでに、富田が子供を堕ろせと言うのかわからなかった。口では誰の子供かわからないと言っているが、実際は自分の子供だと気付いているはずだ。それなのに堕ろせと言う。
子供が嫌いなのかと訊くと、そうじゃないと言う。富田がこだわる、二人だけの生活を邪魔する者が出現するのが許せないのかと問うと、それも理由のひとつだと答えた。
だが、今までの組や借金とは異なり、自分たちの子供が二人の生活を邪魔するというのはおかしいのではないかと言うと、黙りこんでしまった。
男と女では子供に対する感情は微妙に違うものだろう。違っていて当然だ。だが、邪魔すると思う感情はどういったものだろう。
あけみは、今度こそ富田という人間が本当にわからなくなり、口を噤んだ。
富田もじっと黙っていたが、やがて顔をしかめながら口を開いた。
「実はお前にはもうちょっと稼いでもらおうと思てな。組に相談したんや。今までどおり、組の傘の下で立ちんぼさしてくれへんかって。組はすぐにオーケーしてくれた。見返りとして、俺を組員にしてくれるらしい」
すぐに嘘だとわかった。
「もうすぐ組の若い衆がお前を連れに来る」
明らかに、富田の泳ぐ目が嘘だと語っていた。だが、あけみは騙されたふりで言った。
「あんたが望むんやったら、何でもする。せやけど、この子だけは産まして」
「あほか! ガキ産んで体の線が崩れた奴なんか値打ちないんじゃ。とにかく堕ろせ! 堕ろすのが嫌やったら、今すぐ出て行け!」
あけみが黙って動かずにいると、富田は再び出て行けと叫び、あけみの長い髪を掴んだ。
「早よ出て行け。奴らが来るぞ。あいつら来たら連れて行かれて流産させられるぞ!」
嘘だとわかっているあけみは、微動だにしなかった。
富田はそんなあけみに苛立ち、髪を引っ張り、畳の上を引きずり回した。それでもあけみは声ひとつ上げず、出て行こうとしなかった。富田の本心ではないことがわかっていたからだ。
富田は堪忍袋の緒が切れたような表情で叫ぶように言った。
「何やねん、一体! 堕ろすのも嫌、出て行くのも嫌。どないしたいんや!」
「あんたと、この子と三人で暮らしたいだけなんや」
心からそう思っていた。家庭に恵まれなかったからこそ、家庭を築きたいという想いがあけみにはあったのだ。
「まだ、わからんのか! そんなもん無理なんじゃ!」
そう言うと、富田は再びあけみの髪を掴み、立たせた。そして、ええ加減にせえよと言うや、あけみの顔を平手で叩いた。
乾いた音を耳にすると共に、あけみははじめて顔を殴られたと思った。いや、そんなことより、以前のように腹を殴ったり、蹴ったりしなかったことに、富田のやさしさを感じた。しかし、「出て行け。これでわかったやろ。俺はお前が邪魔になった。お前なんか必要ないんや」という言葉を聞いた時、あけみは心が冷たくなった。決して本心ではないとわかっていても、あけみはその「邪魔」「必要ない」という言葉に、昔を思い出してしまったのだ。子供の頃、親戚たちに言われ続けた記憶が甦ってきた。気付けば玄関口までトボトボ歩いていた。
「早よ行け! 組の若い衆が来るぞ」
ああ、冨田はまだ嘘を言っていると思いながら、あけみは、今はとにかく一旦一人になった方がいいと考え、部屋を出た。
あけみはあてもなく歩いた。そして、気付けば戎橋まで来ていた。すると無性に富田と出会った「ともしび」へ行きたくなった。
あけみは歩いた。だが、いくら歩いても、それを見つけられないまま、大通りに出てしまった。来た道を引き返す。しかし、見つけられなかった。
あけみは突如、物凄い不安に襲われた。それは何故か幼い頃、両親を失くした時に感じた不安に似ていた。その不安を体から脱ぎ捨てようとするかのようにあけみは道頓堀を歩いた。
結局、「ともしび」は見つけられなかった。いや、かつてそれがあったであろう場所を見つけることは出来た。「ともしび」は、ネットカフェやカラオケボックス、ファストフード店が入るビルに姿を変えていた。
すぐ近くのひっかけ橋で立ちんぼをしていたというのに、全く知らなかった。思えば、ひっかけ橋とホテル、あるいはアパートを往復するだけの生活だ。気づかなくても無理はない。
あけみは時の流れを感じずにはいられなかった。富田と出会ってから、もう十年以上も経っているのだ。
だが、「ともしび」がなくなったことが、自分と富田の間の灯りを消してしまったような気がし、富田との別れを予感させた。
そして、富田がどうしても子供を堕ろせと言うのなら、富田との訣別も致し方ないと考え、それを決意した。
あけみは二十四時間営業のコーヒー専門店に入った。熱いコーヒーを飲み、冷えた体を温めると、店の人にメモ用紙とペンを借り、富田への気持ちをしたためた。出会った時の気持ち、自分を必要だと言ってくれたことへの感謝、二人の生活の回顧、子供のこと……。
だが、長々と書き連ねても、今の自分の本心が微塵も現れていないように思えた。
あけみは店員にもう一枚メモ用紙がほしいと声をかけた。すると、店主が気をきかせて、便箋を持ってきてくれた。
あけみは丁寧に礼を言い、その便箋に向かった。そして、たった一行だけ、文字を連ねた。
―命をありがとう。
あけみは、このたった七文字が、現在の心境の全てを語っていると思い、長い間眺めていた。
たった一人で、この右も左もわからないミナミに出てきて、富田に出会えたからこそ、今の自分があるような気がした。
寂しさからであったとしても、今まで不必要だと言われ続けた自分を必要だと言ってくれ、頼りにしてくれた富田。他人が見れば、情けなく、どうしようもない男だと思うだろう。だが、あけみにとっては、自分をしたたかに、そして女にしてくれた存在だったと実感することが出来た。
まさに、あけみに命を吹き込んでくれたのだと。生かしてくれた存在だと。それに加え、富田は新たな命をも授けてくれた。お胎の中の子供だ。改めて、あけみは富田が何と言おうと、この命を世に出すことを誓った。
子供には両親が揃っていることが理想だが、自分ががんばって父親の役目も果たせばいい。
「!」
そこまで考え、あけみは富田にも幼い頃から両親がいなかったことを思い出した。
いや、違う。
富田は捨てられたのだ。あけみは、はっとした。富田が、頑なに子供を堕ろせと言った理由がわかったような気がしたのだ。
富田は自信がないのだ。親に捨てられたという過去を持つ自分のような人間が、果たして人の親になれるのだろうかという不安にとらわれているのだ。自分も子供を捨ててしまうのではないかという恐怖に見舞われているのだ。
あけみは思い出した。富田は、「無理」と言った。あけみが子供と三人で暮らしたいと言った時、「無理だ」と言った。
それは、やはり、自分は親になんてなれっこない、なるのが怖い、なってはいけないといった心の現れとして発した言葉だったのではないか……。
あけみは思った。このまま富田と別れてしまったら、富田は一生、親に捨てられた過去から逃れられず、その時の不安や恐怖、寂しさを引きずったまま生きていかなければならないと。
そして、富田が過去の呪縛を解き放つには、自分とこの子が必要だと。それから、もちろん、自分とこの子にとっても富田は必要な存在だと。
あけみは店を飛び出した。アパートへ行きかけ、思い直し、引き返した。
戎橋へ向かう。そこで待とうと思ったのだ。この十年間、客を待っていたその場所で、富田を待とうと思ったのだ。客ではない一人の男を。
いや、待つのではない。
もう一度出会うのだ。そして、必要とする者同士が、自然に惹かれあって、再び関係を作っていくのだ。
あけみは歩いた。ネオンの中を泳いだ。
戎橋が見えてきた。
不意に、この橋の上を三人で歩く姿が瞼に浮かんだ。
涙が溢れてくる。
あけみは涙を拭った。
富田をすぐに見つけられるように。
そして、富田と笑顔で出会うために。
(了)