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【掌編小説】うそなき

 いつだって涙を流せた。いつだって相手を騙せた。いつだって世界で一番不幸な女を演じることができた。いつだって……。
 物心ついた時には、いやその前から無意識的に私はそういう演技をする女だった。
 親にさえそうだった。姉妹ケンカでは私が悪くても私が先に泣いた。姉の私より、妹の方がいつも怒られ役だった。小学校の先生に対してもそうだった。授業中、問題に答えられなかったり、体育の時間、少し疲れたくらいで涙目を見せた。すると先生はやさしく、「もういいから座ってなさい」と言ってくれた。大人になり、恋愛の場面でも私の涙は有効だった。ほとんどすべての男が私の我儘な涙にひれ伏した。
 夜中、東京のマンションで彼と寝た後、突然、北海道の雪を取ってきてと涙を浮かべて言ってみた。彼は取ってきてくれた。職場の気に入らない女をレイプしてと涙ながらに頼んだこともあった。その男は言うとおりにしてくれた。すべて私の涙がなせる業だった。
 私の涙さえあれば、世の中に不可能なことなどないとまで考えていた。
 そんな私を私は嫌な女だとは思わなかった。むしろ、世の女たちはなぜ涙をもっと活用しないのかと不思議にさえ思っていた。でも、その理由を私は知っていた。汚い女が泣いてもそれは醜い物以外の何物でもなく、男にとっては鬱陶しいものでしかないからだ。それに引きかえ、私は涙が似合いすぎるほど美しかった。その美しさをくれたことに関してだけ、私は両親に感謝していた。だが、それだけだ。お金があればもっとよかったのに……。
 私は私の涙で、世界をこの手にできるとまで考えていた。
 平凡な家に生まれた私は資産家でも何でもなく、のし上がるには金持ちのアホボンか医者、政治家、それが無理なら実業家とくっつくしかなかったのだ。そのためには涙が唯一の武器だった。その武器のおかげで、若い頃から私はあらゆる金持ちからプロポーズされた。どれもいい話だったが、すぐには返事をせず、引き延ばせるだけ引き延ばした。キープというやつだ。だから三十になった今、そのキープしている男の数は五十を少し超えるくらいにまでなった。
 仕事はしていない。する必要がないからだ。五十人を超えるスポンサーたちが貢いでくれる。
 時々、街でスカウトに声をかけられる。モデル、俳優、ホステス……。でも、興味がなかった。彼女たちより私は稼いでいるからだ。
 いや、うそ泣きで稼いでいる私は、言わば俳優か。
 私は自らの演技力でまだまだ稼ぐつもりだった。 
 だが、そんな私に突然病魔が襲いかかった。スキルス性の胃癌だった。それはまさに青天の霹靂だった。確かに胃の調子はずっと悪かった。でもそれは、毎日コース料理を食べたり、お酒を飲みすぎているせいだと考えていた。
 癌だったのだ。
 癌という診断を受けた途端、胃が、背中が、からだ全体がだるく、重くなったような気がした。(なぜ私が癌に?)。何度も浮かんでは消える疑問、憤り、不安、怒り。
 二人に一人が癌にかかる今、別に私が罹患しても何らおかしくないのだが、私は納得できなかった。
 怒りや憤りを医師にぶつけた。そして泣いた。私の涙。治してくれと泣きながら懇願した。だけど、それは通用しなかった。医師はポーカーフェイスのまま、入院を勧めた。
 お金ならいくらでも出す、だから治してほしいと、この私が涙を流しながら頭を下げたが、医師は私と目を合わせることなく、余命を宣告した。
 私は私と婚約をしている気でいる五十人余りの男たちに次々会い、事情を話した。涙ながらに金が必要だと訴えた。金さえあれば、海外の名医に診てもらうこともできると考えたのだ。だが、男たちは一様に首を横に振った。中には、喜び勇んで私を迎えにきたものの、痩せ細った私を気味の悪そうな目で見ると、そそくさと逃げ出す者もいた。泣いてすがったが、無駄な努力だった。
 癌が私の美貌を奪っていた。いや、今までうそ泣きばかりしていた私の醜い心が外見をも醜くさせたのだろうか。
 醜い私の涙もまた醜かった。
 美貌と美しい涙を失った私には何もなかった。そう、私には中身がなかった。何の取り柄もない薄っぺらい女だった。涙も通用しなくなった今、本当に何もない抜け殻だ。
 結局、男たちは私の外見だけに惹かれ、擦り寄ってきていたのだ。本当に私を愛していたなら、病気の私を見捨てたりしない。いや、中身がないことを承知で、美貌と嘘の涙で男の気を惹いていたのは私の方だ。自業自得だ。
それにしても、涙の安売りをして私が欲しかったものとは一体何だったのだろう?
 自宅に戻った私は考えた。
 やはり金だったのだろうか。
 男の気だったのだろうか。
 優越感か。満足感か。承認欲求か。
 病気になったのは罰が当たったのだ。うそ泣きをし、数え切れないほどの人を振り回し、傷つけた罰だ。
 胃がまた痛み出す。
 もうすぐ私は死ぬ。
 泣きたかった。生まれてはじめて本気で泣きたいと思った。うそ泣きではなく、真実の涙を流したいと思った。
でも……一滴も涙は出てこなかった。
 本当に泣きたい時に涙が出てこないなんて……。
 悲しかった。寂しかった。それでも涙は出てこない。
 これも罰だと思った。
 そう思うと、笑えてきた。私は私を笑った。私の人生を笑った。嘲笑った。気が狂ったように笑い続けた。
 やはり……涙は出てこなかった。
 
                             (了)

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