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【短編小説】かくれんぼ 後編

「!」
 振り返る。だが、スチールに変わったドアが四つ並んでいるだけで、誰の姿もない。
 私はそれでもしばらくその場所に佇んでいた。まだどこかに、人のいる気配が漂っていたからだ。
 しかし、誰も現れず、何も起こらず、私は仕方なく柔らかい土の上を歩き、路地に向かった。
 少女は現れない。路地まで来ても、何も起きず、私の記憶に何の動きもなかった。
 路地に足を踏み入れる。その時、私は自分の感情の変化に気付き、驚いていた。
 少女に、夢に出てきたあの顔のない少女に無性に会いたいと思っていたのだ。
 夢の中で怖れ、気味悪く思っていたあの少女に、今では誰よりも会いたいと願っている。
 頭の痛みや、寒気、鳥肌が、早く路地から出ろと私を急かしたが、私は立ち止まったまま、少女の姿を探していた。
 だが現れない。
 あの少女に会わなければ、これからの人生、前へ進めないような気さえしてきた。
 強い焦燥感が襲ってくる。
 この焦燥感も、少女に会わない限り、ずっと私を襲うのではないかと思えてくる。
 しかし、どうしようもなかった。夢の中で私に手招きしていた少女が現れないのだから。長屋には何の変化も起きないのだから。
 諦めかけ、長屋に背を向ける。路地を戻り始めた。
 だが、すぐに私は足を止めていた。
 突然、どこからか、歌うような声が聞こえてきたからだ。
   
 足を止め、耳をすます。
 その細い声は、長屋の裏の方から聞こえてくる。
 そしてそれは、あの少女の声だと、私の聴覚が即座に認めていた。
 夢の中で私の名を呼ぶ声。今、私の耳に入ってくる声は、まさにそれと同じものだった。
 一瞬、私の名を呼んでいるのではという気がしたが、錯覚だった。節をつけ、何か歌っているようだ。
 私は声のする方へ足を向けた。
 全く恐怖心はなかった。幼い子供が無邪気に歌い、遊ぶ光景が浮かび、微笑ましい気分にさえなってくる。
 冷静だった。その冷静な頭で、私は思い出していた。この長屋の裏は、路地と同様、工場の外塀が迫っている。今では閉鎖された木材工場。ということは、声の主は塀の手前にいる筈だ。
 そう考えながらも、私は足を速めた。やはり、全く恐怖心は沸いてこなかった。
 もしかしたら少女に会えるかもしれないという気持ちが私を包んでいた。
 記憶の襞に引っかかり、死んだようになっているものを生き返らせることができるのではという気持ちが、私を動かした。
 長屋の脇の、人ひとりがやっと通れる筋。子供なら簡単に通れるであろう、その筋の奥に、声の主がいる。
 私は長屋の端まで行き、足を止めた。
 少女の歌うような声が少し大きくなって耳に入ってくる。だが、何と言っているのかわからない。ただ、規則正しい旋律のようだということだけはわかる。
 少女の声によって、頭痛は明らかにひどくなっていた。
 だが、寒気や鳥肌はいつの間にか消え去っている。
 ただ、焦燥感が強く覆い被さってきていた。
 その焦燥感に押されるように、私は脇道へ入った。
 だが、すぐに足が止まる。
 五メートル先。
 今では使われていない木の電柱が、そびえるように立っていた。
 眩暈がする。電柱が揺れて見えた。頭痛がひどくなっていく。
 眩暈もひどく、思わずしゃがみこんでいた。
 目を閉じる。
 閉じた目の中、まだ電柱が揺れていた。いや、記憶が揺れていた。
 揺れる記憶。
 気付けば、その揺れる記憶の中に紛れこんでいた。
 暗い洞窟を、光力の弱い懐中電灯を照らしながら進んでいくように、私は少しずつ記憶の中へ入っていった。 

 二十年前。
 私たち一家は、突然この長屋から出ていくことになった。
 子供だった私は生まれてはじめての引越しに戸惑った記憶がある。いや、今の今まで生活していた環境を捨て、見知らぬ土地へ行くという、その引越しという行為自体にも、違和感を覚えたものだった。
 だが、とにかく私たち一家は、突然この町を出ていくことになった。
 今となってははっきりしないが、おそらく夜逃げのようなものだったのだろう。毎晩のようにガラの悪い男たちが訪問してきていたのを思い出す。彼らは多分、借金取りだったのだろう。
 とにかく私にとって、この長屋からの引越しは、本当に唐突なものだった。
 何しろ、あらかじめ、両親から何の予告もされておらず、幼なじみと「かくれんぼ」をしている最中、急に車に乗せられ、この町を去ることになったのだから。
 ハンドルを握る父と、助手席の母の思いつめたような、何かを決意したような表情を、私はこわいと感じた。
 その二人から目を逸らすように、私は後ろを振り向き、遠ざかる町を見ていた。「かくれんぼ」を途中で投げ出してきたことが気がかりだった。もちろん同時に、幼なじみにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だから心の中で呟いていた。「帰ってきたら続きをやろう」と。   
 だが、母親の、「もうこの町には帰ってこないからね」という言葉を聞いた時、私は、はじめて引越しという事態を知り、呆然とした。一瞬後には、涙がこぼれ落ちていた。もう、幼なじみと「かくれんぼ」の続きをすることができないと思うと、何かとても大切なものを失ったような気持ちになり、とてつもない喪失感に見舞われた。
 子供にとっての別れは、その世界や交際範囲が狭いということもあって、とても大きな驚きと、痛みをもたらすものだ。
 あの時の私も例外ではなく、驚愕や苦痛に襲われ、それらが涙を呼んだ。
 私は泣いた。泣き続けた。今の今まで住んでいた、そして、もしかしたら、まだ「かくれんぼ」の続きをしているかもしれない幼なじみのいる町を振り向きながら泣いた。
 六年間過ごした長屋。路地。そして……兄妹のように、ずっと一緒に時を過ごしてきた幼なじみ。 
 それらとの別れの涙。
 だが、それだけでは終わらなかったのだ。それだけなら、時折、ノスタルジックな想いに包まれ、今までに何度か故郷を訪れていただろう。大人になるにつれ、甘く、心地よくさえなった思い出を遡っていたはずだ。
「かくれんぼ」の続きはともかく、幼なじみにも会いに行っていたはずだ。
 だが、そうしなかった。
 いや、できなかったのだ。
 全てが記憶の底に埋まり、呼吸をしていなかったからだ。
 閉じ込めていたからだ。
 だが、今、その閉じ込められていた記憶がようやく顔を出しつつある。
 あの日。
 あの時。
 私たち一家がこの町を去った、あの直前まで、私と幼なじみは「かくれんぼ」をしていた。
 二人きりの「かくれんぼ」。
 私がかくれる番で、いつものように、玄関前の洗濯機の脇に身を潜めようとしていた。
「もう、いいかい?」
 幼なじみの歌うような声。
「まあだだよ」
 応える私。それが何度か繰り返された時、突然母が、私の腕を?んだ。そしてそのまま路地を抜け、表に停めてあった車に私を無理やり押し込んだ。同時に車は走り出し、この町を去った。
 幼なじみに一言の声もかけることなく、この長屋を去った。
 そして……幼なじみは、「もう、いいかい?」と何度呼びかけても返事がないことを訝り、私を探し始めた。
 たった三、四箇所ほどしかなかった、いつものかくれ場所を探した彼女は、そのどこにも私がいないことを不思議に思ったのだろう。  
 いや、いつもと違う所に私がかくれていると思い、子供らしい好奇心を表に出し、ドキドキ、ワクワクしながら、絶対に私を見つけてやろうと思ったに違いない。
 彼女は私を見つけるため、路地を抜け、表の通りへ出た。
 そして……当時まだ操業していた工場から出たダンプカーが、突然飛び出してきた少女をよけきれずに……。
 引越した翌日に、両親からその話を聞かされた私は、ひどくショックを受けた。はっきりした日数までは覚えていないが、何日かは食事を摂らなかった。
 子供心に、彼女が死んだのは自分のせいだと感じていたのだ。
 私たち一家は、結局彼女の葬儀には行かなかった。夜逃げ同然に去ったあの町には行けなかったのだ。私にしても、幼すぎて一人では行けなかった。
 いや、そんなことすら考えられる状態ではなかったと思う。
 とにかく沈んでいた。そしてその沈んだ日々から脱出するため、私の本能が自衛手段をとった。
 あの町と彼女の記憶を、脳の奥に閉じ込めようとする作業を開始したのだ。
 そしてそれは、呆気ないほど簡単に完了した。両親が、逃げ出してきたあの町のことを、全く話題にしなかったということも強く作用したのだろう。
 私の中から完全に、あの町、路地、長屋、そして幼なじみのことは消え去った。
 正確には眠っていただけなのだが……。
 それが今、目を覚ました。
 心の襞に引っかかってきたものの正体。それをようやく記憶が教えてくれた。
   
「もう、いいかい?」
 はっきり、そう聞こえた。
 まるで意識を失うようにして、記憶の中を泳いでいた私は、ふと我に返った。
 現実に戻る。
「もう、いいかい?」
 幼なじみの声。
 歌うような声の正体はこれだった。
 いつの間にか痛みの消えた頭を振る。目を開けても、もう眩暈はしないだろうという気がした。
 私はしゃがんだまま、ゆっくり目を開いた。
 電柱の根元。しゃがんだ私の目線の高さに、赤いワンピースの背中があった。やはり、もう眩暈はせず、はっきりとそれを目にすることができた。最後に「かくれんぼ」をした時と同じ恰好だと、記憶が私に告げていた。
 組んだ腕で顔を覆い、その腕を木の電柱に預けている。
「もう、いいかい?」
 少女の声。
 懐かしい声。
 私の心が、懐かしい記憶を受け入れていた。
 目の前に、二十年前に死んだはずの少女がいるというのに、全く怖さはなかった。いや、怖いとか、不可思議だとか、もうそんな次元に私はいなかった。
 顔は隠れて見えないが、懐かしい幼なじみが目の前で、懐かしい「かくれんぼ」をしている。
 胸が熱くなるというような、そんな陳腐な表現では言い表せない、大きな心の動きがあった。体ではなく、心が震えていた。
 涙がどっと溢れ出す。二十年前の涙とはまた違うそれが、今、私の頬を勢いよく流れ落ちていた。
「もう、いいかい?」
 彼女の姿が涙でかすむ。声だけが鮮明に耳に届いた。
 立ち上がる。
 彼女は二十年前からずっと、ここで、こうして、「かくれんぼ」を続けてきたのだ。
 途中で急に抜けた私が、再び「かくれんぼ」に参加するまで、ずっと、ずっと、私が来るのを待っていてくれたのだ。
 涙が止まらなかった。
「もう、いいかい?」
 その声にごく自然に応えていた。
「まあだだよ」
 私は涙を拭うことも忘れ、かくれ場所を探した。
 当時でさえ、三、四箇所ほどしかなかったかくれ場所。今では誰も住んでいないこの長屋に、かくれるのに適した場所は見当たらない。 
 私はウロウロした結果、路地の中ほどまで来てしまった。
 懐かしい路地の匂いを嗅いだ。さっきまでは感じることのなかった匂い。あの頃の記憶が再び蘇ってくる。だが、間もなくこの路地も、そして長屋も全て取り壊され、姿をなくす。
「!」
 彼女は、この長屋の取り壊しが迫ってきたため、私の夢に現れたのだ。長屋がなくなることを私に教えるために。長屋がなくなる前に、中断していた「かくれんぼ」を再開したくて。
 この長屋がなくなるのは悲しいことだ。でもその計画がなければ、彼女はじっと私を待ち続けていたはずだ。私の夢にも現れることはなかっただろう。健気にずっとこの場所で、一人きりで待ち続けていたはずだ。
 そして私も、彼女や長屋の記憶を封印したまま、この先ずっと生きていったことだろう。一生、思い出すことなく。
 思い出の長屋がなくなるのは確かにつらい。だが、それが結果的に私と彼女を再会させる大役を担ってくれたのだ。
 夢の中で彼女の顔がなかったのは、彼女の記憶を閉じこめようとする、いわば防衛本能が無意識のうちに働いたためだろう。
 そしてこの路地に入ることに対する拒絶反応や、何かを思い出そうとすると頭が痛んだのも、無意識のうちに、さらに記憶を閉じこめようとしたせいだろう。
 そして度々襲った焦燥感。
 それは彼女からのメッセージであり、彼女自身の心の叫びだったのだ。
 長屋が取り壊される前に、私に来てほしいという焦り。それが私の心に伝わることで、私自身、その焦燥感に包まれた。そしてそれに追い立てられるようにここまでやって来た。
 焦燥感が結果的に記憶の扉を開ける大きな力となった。
「もう、いいかい?」
 少し弾んだ彼女の声。
「まあだだよ」
 無邪気な声を返す。
 私は一瞬迷ったが、その場に腰を下ろした。
 かくれていることにはならないかもしれない。でも、彼女は長屋を探して私がいなければ、ここに来る筈だ。二十年前と同じように。
 そして、ここで見つかれば、彼女は表で事故に遭うこともない。それに、この路地で、幼なじみと再会したかった。
「もう、いいかい?」
 その声に、私は涙まじりの笑顔で応えた。
「もういいよ!」
                           (了)

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