【掌編小説】偽りのキス
私の唇に彼の唇が触れる。それはまさに触れるという行為以外の何物でもなく、キスという実感はなかった。冷たかった。彼の心が冷たかった。それが唇を通して私に伝染し、私の心をも冷たく閉ざした。彼の唇ではなかった。
いや、目の前の男は確かに彼だ。目はほとんど見えなくなっていたが、間違える筈などない。彼だ。しかし、彼のキスではなかった。初対面の相手を無視するのは憚られ、会釈くらいはしようかというようなキスだった。
私は、意を決したかのようにして入ってこようとする彼の舌を受け入れ、そして唇と同様冷たいそれを私の舌で押し戻したながら軽く噛んだ。
「うっ」
彼が慌てて唇を離し、非難めいた声を出す。
戸惑ったような声。私は、脳にできた腫瘍のせいで光を失った目で彼を見た。もちろん彼の顔は見えなかったが、彼がその声以上の剣幕で顔を顰め、怖い顔で私を睨んでいる様子が脳裏に浮かんだ。でもすぐに消えた。
私は笑った。冷たい笑い声が病室に響き渡る。彼が狼狽している様子が窺えた。滑稽だった。それでも逃げ出さない彼は、決して真面目でやさしいのではなく、気が弱いだけだった。言うなれば偽善者だった。だから私は彼のために言ってあげた。
「行っていいのよ。私は一人で大丈夫」
彼が戸惑っている。
「たとえ手術が成功して腫瘍が摘出されても、この目が見えるようにはならないってことはもう知っているから。でも大丈夫。ちょうど、あなたの顔も二度と見たくないと思っていたから。だから早く行って。もう私の前に現れないで!」
彼が俯いている様子が気配でわかった。目が見えない私にさえ演技をしている。根っからの偽善者だった。殊勝な態度を取り、自分が去っていくのはお前がそう言ったからだという大義名分を振りかざしている。
(お前はもう俺の顔を見ることはできない。一緒に同じものを見たりすることもできないんだ。大好きだった映画も観られない。お前の危なっかしい運転に付き合うこともできない。何もできないんだ!)
彼の心の叫びが聞こえてきた。
彼の気持ちもわからないでもなかった。恋人が突然目の光を失う。もしかしたら本人以上に失望し、逃げ出したくなるかもしれない。だが、それなら尻尾を巻いて逃げ出せばいい。誰もその行為を責められやしない。いや、その方が潔い。自分が去る行為を相手の言葉のせいにしたり、偽りのキスをするよりは。
「目が見えないからこそ見えるものもあるのよ。身を持って知ったわ。もしかしたら、目が見えなくなって良かったのかも。あなたの本性を知ることができて」
その一言で彼が背中を向けるのがわかった。
私は一瞬、彼を傷つけてしまったのではないかと後悔しかけた。でも、すぐにその想いを打ち消した。
彼の冷たい唇の感触が私の唇から消えていないことに気付いたのだ。私は自分の唇に人差し指をそっと当てた。彼以上に冷たい唇だった。やるせなくて、せつなかった。私は人差し指を噛み、嗚咽をこらえた。