【掌編小説】天使のささやき
「歌、残したいの」
彼女がポツリとそう言った時、彼女は自分の余命に気付いていた。余命どころか病気のことすら知らなかった僕は、彼女の声の調子が最悪だったので、
「扁桃腺の腫れが引いてから録音しよう」
と、彼女を諭すように、しかしきっぱりと否定していた。彼女は僕の言葉に瞬間呆然とし、肩を落としたが、すぐにいつもの笑顔になり、頷いた。
だが、彼女の喉は一向に良くならないどころか、悪化の一途を辿っていった。
透き通るようでいて存在感があり、胸に染み入るようで強くハートを叩いてくる彼女の声。空気のような澄んだ声と言ってもいいだろうか。
もちろん天使の囁きなど聞いたことはないが、僕は勝手に天使の囁きと呼んでいた。その声が彼女の口から聞けなくなって久しい。
今ではあの天使の囁きの存在すら錯覚だったのではないかと思わせるほど、彼女の声はひどいものになっていた。
常に掠れ、しわがれていた。しかし、それはまだマシな方で、喋っていても声にならず、空気が洩れる音だけが聞こえる時もあった。空気のように澄んだ声が、本当の空気だけの声、いや、音になるのは皮肉だった。それだけでなく彼女は熱で寝込むことも多くなった。
そこまでひどくなって、僕はようやく彼女が喉頭癌で、それも声帯付近にまで癌細胞が広がっていることを知った。
ショックだった。病気のこともそうだが、歌手志望の人間の大切な喉に癌ができたことがショックで、運命の皮肉を憎んだ。
真剣に歌手を目指している彼女は、喉にメスを入れることを拒み、抗癌剤だけの治療に頼っていた。その結果、声帯に転移してしまったのだった。
それを聞いた僕はつい彼女を責めてしまった。オペをしていれば、声帯にまで転移することはなく、余命どうこうという話にはならなかったのにと。
だが、僕はすぐに自分の思慮のなさを悔やんでいた。
喉にメスを入れるということは、歌手志望の彼女にとってはまさに死活問題だ。確かにオペをすることで癌は治り、声帯に転移することはなかったかもしれない。しかし、メスを入れることで声を失い、一生歌を歌えない体になるかもしれなかったのだ。彼女にとってそれは、命を落とすことにも等しい。だから彼女はオペをせず、抗癌剤だけに頼った。僅かな可能性にかけて。しかし癌は消えてはくれず、転移した。それも声帯に。間もなく彼女は声を失う。命よりも大切な声を失う。歌を失う。そして命さえも……。
あるプロの歌手は、咽頭癌が見つかった時、患部にメスを入れることで歌えなくなることを怖れ、オペを拒んだ。たとえ命が絶たれたとしても、歌い手として、歌い続ける道を選んだ。
結果、命を落とすことになったが、死ぬ間際まで歌い続けることができた。
また、ある別の歌手は、喉にメスを入れ、癌に冒された声帯を摘出した。たとえ歌えなくなったとしても、生きる道を選んだ。
正解などない。それぞれの生き方だ。
ただ、彼女は前者を選んだ。
彼女は多分、癌が声帯に転移した頃に、歌を残したいと言ったのだ。喉頭癌を発症したばかりの頃は、完治に望みを託していたため、歌を録音したいとは言わなかった。必ず治ると信じていたから。
だが結局、癌は声帯に転移し、完治に一縷の望みもなくなった時、彼女は自分の声を、歌を残したいと思った。
彼女は「録音したい」ではなく、「残したい」と言ったのだ。
医師によると、その頃の彼女は、抗癌剤の副作用の影響で、自分の声の状態すらつかめない状況だったらしい。だから僕に判断を仰いだ。自分の声の調子が良ければ僕は録音にゴーサインを出すと思ったのだ。しかし僕は彼女の声を即座に否定した。
僕はひどく後悔していた。あの時、素直に録音してやれば良かったと。その一方で、あの時の彼女の声はすでに精彩を欠いており、彼女のベストの声、いわゆる天使の囁きを知っている僕にはどうしてもそれはできなかったと思う気持ちもあった。病気のことなど知らず、すぐに声は戻ると思っていたせいもあるが……。
彼女はショックだったはずだ。彼女の声、歌の一番の理解者である僕に声を否定されたのだから。そしてそれは一時的なものではなく、治癒が望めない状況下、永遠に自分の声を否定されたということだから。
今思うと、あの時の彼女の憔悴ぶりは尋常ではなかった。そしてあれ以来、彼女の容態はひどくなり、通院治療が不可能になったのだった。
そして、ついに彼女は失声した。
癌細胞が猛威をふるったせいで、声帯が完全に機能を失ったのだ。そしてそれだけではなく、癌がリンパ節へ転移したせいで高熱を出し、危篤状態に陥ってしまった。いつ逝ってもおかしくない状態だった。
知らせを受け、僕は病院へと駆けつけた。集中治療室へ入ると、もう何も見えないはずの彼女が、まるで僕に気付いたかのように唇を動かし始めた。驚いた僕は酸素マスクを外した。
彼女は歌っていた。
明らかに歌っていた。
だが、もちろん声は聞こえない。空気が洩れるような音だけが耳に入ってくる。
しかし、僕にとってはまさに天使の囁きだった。天使の歌声だった。
動き続ける唇。心電モニターの波線が直線に変わる。
それでも歌い続ける彼女。
「もう……もう、いいよ。ゆっくり……ゆっくりお休み……」
涙で濡れた唇を彼女に近付けた。
唇と唇がそっと触れる。
天使の囁きが伝わってくる。
僕は唇で彼女の歌を包み込んだ。
(了)